トラウマと性癖は繋がっているのかもしれない。


一人暮らしからほぼ強制的に実家へ戻された。わたしもほとんど無理やり一人暮らししたみたいなものだから、しょうがないのかもしれない。ただ、家族LINEで突然「〇〇が退去日です」と送られてきた時は悲しかった。〇〇が近づく最中、バイトで夜遅くに家に帰るたびに少しずつ家具がなくなっていくのも悲しかった。(親がわたしがいない時に来て、家へ持ち帰っていたのだ)

実家ではわたしの部屋と母の部屋が知らない間に入れ替わっていたのも、驚いた。母が買ったプロジェクターを投影させるための壁の都合上らしい。一言でも声をかけてくれたらよかったのに。別に、断ったりしないのに。

大事なことほど、勝手に決められてしまう。この家は、そういうものだった。

そして、ついに母の部屋がわたしの部屋となった。この部屋と父の部屋の扉は内側から施錠できるようになっている。外側から開けることを想定していないので、鍵はない。わたしはそれが、あまり好きではない。

この家が建ったのは、わたしが3〜4歳の頃だったと思う。遊び盛りで元気な時期だ。だから両親は、仕事や睡眠の邪魔をされたくなくて自室に鍵をかけたと言う。確かに、わたしと一対一で遊んでくれたことは一度もなかった気がする。ディズニーチャンネルかアニマックスを観るか、何度も読んだ本を繰り返して読むか、絵を描くか、ぬいぐるみを抱きしめていた。それが当たり前だったので寂しいとは思わなかったし、泣くこともない。ただ、親を怒らせた時につかつかと遠ざかる姿を追いかけても無慈悲に勢いよく閉じられる扉と、施錠される瞬間の冷たい音が一番怖かった覚えもあった。

わたしは保育園が好きだった。いい子にしていれば、誰からも怒られることはないし、クラスの子もわたしに良くしてくれたからだ。母親と離れることを嫌がって泣き喚く園児を横目に、わたしは毎日振り返ることなく先生と足早に教室へ入った。親からすれば、可愛げのない子供だっただろう。お迎えはいつも遅くて、最後か、最後から二番目だった。いつも18時は過ぎていたと思う。それくらいの時間になって、先生もあと一人や二人しかいなくなってくると、手を引いて真っ暗な給食室へ連れて行ってくれる。そして、おやつボックスという透明で大きな(保育園児のわたしからすれば、だったので今見ればそうでもないのかもしれない)プラスチックの箱からひとつお菓子を選ばせてくれた。お迎えが遅い可哀想な子への慈悲だったのかもしれないけど、わたしは堪らなく優越感を覚え、嬉しかった。珍しく早く迎えが来た時にはそれが貰えないので「どうして早く来ちゃったの?」と拗ねたことすらあったという。可愛くない子供だった。

実際、可愛くないと言われていた。
不細工、デブだと言われていた。
不細工ではあると思うが、デブではなかった。
人生で一番褒められたのは身体だったから。
デブだと罵るくせに、時折「その身体に産んでもらえたことに、感謝しなさい」と言われた。
わたしには、身体とか関係なく、産まれたことに感謝するのはなかなか難しい。

わたしは望まれて産まれた子どもではないからだ。結婚記念日と、誕生日の計算が合わない。

高校の時に命と母の研修を受けたことがある。助産師さんが講演にいらして、機械を駆使して妊婦さんの体験が出来るという研修だった。
申し訳ないけれど、終始つまらなかった。

面白い面白くないとかそういう次元ではない。助産師さんが悪いわけではない。

わたしに、命の有り難さを享受する器がなかったのだ。わたしは、仕方なく産まれただけにすぎない。

研修から帰った夜、母に聞いてみた。
「わたしのこと産んでよかった?」と。

1分ほど黙っていたと思う。いや、もしかしたらそれより短かったかもしれないが、わたしにはすごく長い時間に感じていた。
「わからない」
答えはそれだけだった。
嘘でもいいから、よかったと言ってほしかったのだと、なぜか痛む胸に思い知らされた。
ひどく惨めだった。

本当に、わからないのだと思う。彼女は良くも悪くも、嘘をつける人ではない。でもきっと、産まなきゃよかったとは何百回も思っているだろう。

母の顔は、誰が見ても整っている。
母には自信もあった。能力もあった。
異性からもモテていたという。
そんな人が、わたしなどを気に入らないというのは当然のことなのだ。

わたしには優れた容姿も頭脳もなければ、異性と上手くコミュニケーションを取ることもできない。わたしには、何もない。見ていて腹立たせるに決まっている。

母の飼い猫みたいな丸くて大きな目は、わたしを見る時には蛇のように吊り上がる。顔を真っ赤にして怒鳴る。わたしよりも小さい身体で、わたしに襲いかかる。

何度も叩き、殴り、蹴り、髪をぶちぶちと音を立てながら引っ張り、壁に頭を打ちつけた。
怒号を浴びせ、外に締め出す。
カバンを2階から投げ捨てる。
納戸に閉じ込める。
壁には穴があき、椅子の脚は折れ、わたしを叩くためのハンガーは変形した。小学校の時に買わされた竹の定規は折れた。

わたしはおかしくなったのだろう。
あんなに嫌だった暴力が、罵倒が、今の性癖に繋がってしまっている。

なぜだろう。あんなに悲しかったのに、今はわたしを喜ばせるためのものになってしまった。

もちろん今も母に同じことをされたとしても喜ばない。また悲しくなるだけだ。怒りも湧かない。

ただ、好きな人に同じことをされると思うとたまらなく興奮してしまうのだ。

それが、正気に戻った時にひどく悲しい。恥ずかしい。

考えてみた。
きっと、わたしにはその育てられ方(否、躾けられ方だ)しかされていないから、それしかコミュニケーションの方法がわからないのだろう。

こんな一方的なもの、コミュニケーションなんて呼んだらいけないのに、それしかなかった。

普通の、普通がわからないけど、おかあさんはどうするんだろう。良いことをしたら優しく褒めてくれるのかな。頭を撫でたり、抱きしめたりしてくれるのだろうか?そういうふれあいがあれば、好きな人にも同じようなふれあいを求められるのだろうか?

というより、接触するにあたる選択肢に優しいふれあいが入っているのかもしれない。

その選択肢に、わたしの場合は暴力があるせいで、それを選んでしまう。それを欲してしまう。
母の行いが愛ではない。それなのに、それだけを植え付けられたから、それしか受け付けることができないのだ。

あとは、暴力を、痛みを受けることが自分の役割だと認識してしまっているのかもしれない。

わたしはもう、どうしようもないのだろうか。
性癖が"治る"ことはあり得ないのだろうか。
他の人にも、トラウマと性癖が重なってしまうということはあるのかな。

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