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さいかい 3章

私の娘,美鈴はとてもかわいい.村一番だ.天真爛漫という言葉があるが,あれはあの子のためにあるような言葉だ.

 その年の冬は暖かった.そのせいか,たんぽぽが衣をまる裸にされるころにはいつもの夏と同じくらいの暑さになっていた.
 そのころから港からモノ売りに来ていた商人たちの姿が見えなくなっていたが,村にはさしたる影響がなかった.私達は食べ物は常に自分たちで作れていたのだ.だから彼らとはいつもの食事に彩りをもたせる程度のもので食卓は寂しくなるものの死ぬことはない.周りもみんな「来るのが面倒になったのだろう」と気にする素振りも見せなかった.

 季節は過ぎていき,ひまわりが咲くころになると,今までにないほど村は暑くなり,老夫婦が倒れるなど,暑さにこたえる人が続出した.それは村の作物も同じだった.
 村の作物が被害を受け始めたとき,顔は知らないが,久方ぶりに港町の商人が村に訪れた.商人は少しやつれた顔をしていたものの,今のうちに保存食を仕入れることができればこの夏は乗り切れる.私も含め村人たちは神様に救われたと思い,あまり気にすることはなかった.

 その日の夜はみなで炎を囲み,祭り事のように商人を迎えた.
 みなが祭り事に夢中になっている中,私は左手に酒を持ち,商人のそばまへ歩いた.久方ぶりに気てくれたことへの礼をしようと商人の顔を見たときだった.あのときはあまりにうれしかったせいで気づかなかったが,商人の顔は異常なまでに蒼白していたのだ.

「大丈夫か?真っ青じゃないか」
「ああ,俺はきっと大丈夫だ.それより,この近くの山には曹達が湧き出る泉があるんだよな?」
 心配し,商人に話しかけると商人は何を慌てているのか,しきりに野狐火山で湧き出ていると言われている曹達の居場所を知りたがった.
「曹達の場所はわからないな.昔から近くの廃村した妹背村にあるという噂があるだけで,村の人は誰も知らないよ」
 そう言うと,商人の顔はより青さを増していった.その時の商人は魂ここにあらずといった感じで,まるで死人が話しているみたいに血の色を感じ取れなかった.

「そんな,じゃあ俺はなんのためにこんなところまで.このままだと妙が死んじまう」
 先程までブツブツと話していたせいで気が付かなかったが,商人が繰り返しているうちに何をつぶやいていたかわかり始めた.想像以上に物騒なことを話している.
「何かあったのか?」
 私はなぜただの飲み物がこの商人の知り合いの生死に関わっているのか気になり,失礼を承知で聞いてしまった.
「知らないのか,今街中でとんでもない病が発生してるんだ!コロリって名前らしい.ある村は全滅だって話しだ」
 商人はそういったきり黙りこくってしまった.私の耳にはパチッという炎の音と村人の笑い声がこだまする.商人に何を言ってやれば言いのか,助けてやれることはないのか,村のみんなにはなんて言えばいいのか,そんな事ばかりが頭の中を駆け巡り続けていた.

 翌日になると商人は一人でも曹達を探しに行くと言い,野狐火山へ立ち入ろうとしていた.私も話しを聞いてしまった以上,彼の大切な人を助けてやりたいという思いから,共にすることにした.いや本当は自分ができる限りをすれば後悔はないだろうという浅ましさもあったのだろう.
 野狐火山の麓には50年前くらいに体のどこかしらが悪い女の人を巫女と称して祀るような村があったらしい.しかしある時を境にして,村人は全員移住,原因はわかっておらず,中には祟りだという噂も飛び交っていた.曹達が出る泉があるという話もその頃からだ.

 私達は体中から汗を滝のように流しながら歩いていた.太陽の光は木々が遮ろうとしてくれてはいたが,間から侵入する光が直に私達の温度を上げる.
ーこの暑さも病と関係があるのだろうか?
あまりの暑さに,病と結びつけるなんて突拍子もないことを考えてしまう.
 しばらく獣道を歩いていると,今にも崩れ落ちそうな家々が見えてきた.家の数はおよそ20程度で一つだけひときわ大きいものがあった.どうやら妹背村についたらしい.
 少し休憩しようとしたのも束の間,商人が突然腹がいたいと言って近くの川辺に走っていった.
―きのうあれだけつらい経験をしたんだ.腹の一つ二つ痛くなるだろう
そう考え,商人が戻ってくるのを村の状態を見て回りながら待つことにした.
 
村は50年も経っている事もあってか,屋根には雑草が生えていて,外壁は朽ちかけ,そこら中にささくれができている.そのうちの一つの中を覗いてみると,家の中は思っていたよりきれいでかまどの上には生活用品が置かれている.まるで少し前まで誰かが住んでいるみたいだった.
 気になって他のも見てみるが,どの家も崩れているか,ぼろぼろになっているかのどちらかであり,先程のようなきれいなものは見当たらない.
―それにしても遅いな.
 商人が遅いので様子を見に行くべきか,それとももう少し待つべきか悩んだ.しかし,用を足すところを見られたくもないだろうと思い,最後に一番大きい建物だけを見に行ってから確認しようと決める.

 建物の玄関まで到着して気がついたが,その建物は神社と家を混ぜたような造りをしていて不思議なものだった.外壁は腐りかけてはいたが,建付けや装飾,まるで一級の建築家が作ったように,精巧に作られており,他の建物よりも圧倒的に上等なものだとわかる.
 玄関口から中に入ると幅広い廊下と5個はあるであろう部屋が出迎え,より建物の大きさを際立てる.
 部屋の中を覗いてみると20人ははいるであろう大広間が一つ4人が暮らせるほどの大きさの部屋が4つあった.
 部屋の門間に階段を見つけた.少し斜面が急である.
階段を登ると見た目以上に腐っていたらしく,ガリッと音を立てながら底が抜け足を取られてしまった.小指ほどの太さの破片がすねに刺さる.
 破片を引き抜くと大きさもあり,傷口からさっき流れ出た汗のように血が足をつたう.これ以上階段を登るのは難しそうなので諦めて商人を探すことにした.

「まだ動けないか?そろそろ行かないと日が暮れるぞ」
商人が駆け出した場所にもどり,いそうな方向に声を掛けるが何も帰ってこない.
ーあいつはもどれないだろう
 聞こえてきたその声は商人のではない.危機感からすぐに後ろを振り向くとそこには長髪の女のような男が立っていた.
「もどれないとはどういうことだ?」
ー 俺は人といるのが嫌でね.ここに住んでいるんだ.ほら,あそこだよ.
 そう言って男は先程,私が見ていた場所を指差しつぶやいた.あの家だけやけにきれいだったのはやはり住んでいる人がいたからだった.だが,今はそれどころじゃない.彼がなぜ戻れないかということだけだ.
ー 川で釣りをしてたんだが,そこに彼が来てね.最近,話を聞いたが,コロリというやつだろう.
ー ひどい有り様だったよ.
 手を左右に振りながら飄々と答える男に怒りが湧いてきた.しかし,こういう人間には何を言っても無駄なのは知っている.
「そうかい.悪いが私は先にいかなければならないのでね」
商人を助けに行こうと川へ足を踏み出した.
ー やめておけ,移るぞ.お前が無駄な優しさをあの男に与えることでお前の大切な誰かが迷惑を被るんだ.
ー 責任もとれないのに事を動かさない方が良い.
語気を強めながら男は吐き捨てた.男の言うことに納得はできないが,一理ある.それでも私は,原動力のそれが,私の浅ましさだとしても彼を助けたいと思った.
ー 一つだけ方法があるぞ
「なんだそれは⁉」
 男の言葉に希望を抱き,思わず男の方に両手をかけ振り回してしまう.あまりに感情が高ぶってしまい少し気恥ずかしくなった.
「すまない.それで,どうすれば彼を助けることができるんだ?」
ー 曹達って知ってるか?水みたいに透明で泡立っていて,飲もうとすると口の中に独特の痛みがある飲み物だが
「それくらいは知っている.彼からも曹達を飲めば治るとも聞いたからここまできたんだ.でもどこにあるのか知らないんだ!」
挑発するような男の口調に少し苛立ちながら言葉を返すと,男の口元が少し緩んだ.
「まさか,わかるのか?」
ー まぁここに来て何百年くらいだからね
 そう言って男は冗談っぽく笑った.こんな時に冗談を言うべきじゃないと思ったけれど,今はそれどころではない.
「たのむ,私が彼の手当をするから,曹達を持ってきてくれないか?」
 彼も少し合理的なだけで,きっと助けてくれる.そう思い,彼に助けを求める.ー 無理だよ.一人,二人で行けるようなところじゃない.俺も一度死にかけて,たまたま見つけただけなんだから.
ー 誰かも知らない奴のために生命をかけるなんてゴメンだね.
何かが切れた音がした.

 気がつくと視界には草と土が広がっている.転んでしまったらしい.あまりの怒りに我を忘れて殴りかかったから,うまくかわされて転んでしまったようだ.
ー ほんと人間はいつも感情的に動く.だから嫌いなんだよ.
 男が苛立ちながらつぶやいた.男は本当に人嫌いなのだろう.男の言い方は許せなかったけれど,話の内容を否定することはできない.
「わかった.私が一人で行くから場所だけでも教えてくれないか?」
 男を誘うのを諦めて,体を起こした.一人で曹達を汲みに行くことにする.
ー 場所はこの道を真っ直ぐ,そうすれば岩肌がむき出しになってる壁につく.そこをよじ登るんだ.
ー 登った先に神社の跡地があって,そこの鳥居だったもの近くにあるはずだ
 男は今さっき見た大きな建物を指差し言った.建物の裏手に道があるようだ.「わかった.ありがとう」
ー お前は本当に馬鹿なんだな.
男の挑発を無視して,建物へ向かう.

 建物の裏庭に出ると,庭にはひまわりやかすみ草,たくさんの花々が咲き誇り,一本の道を作っている.道の先は野狐火山の頂上へつなぐようにある.この村を見つけたとき目に入った一本の薄い筋道だった.筋道に入り,歩みを進めると,花は消えて木の枝や砂利が増え道は尾根道荷姿を変えた.しかし少しすると,それらも消え始めていく.尾根道は勝手に,そして不自然に整備されていった.明らかにおかしい.男が嘘を言っていたと勘ぐってしまう.けれども,商人を助けたいため,信じるしかないと腹をくくった.
 整備された尾根道は少し傾斜が厳しくはあったけれどかなり歩きやすい.下を見下ろすとあの建物がかなり小さく見える.少し歩くと,きつかった傾斜は増し,ぽつりぽつりと大きめの岩肌が姿を表し始めた.少しの歩きづらさとさっきの砂利たちから,昔に山崩れが会ったんだと理解する.
 崖と言っても差し支えないような道をなんとか登りきると,空の景色は赤みがかり初め夜の訪れを告げている.時間に少しだけ焦りながら道の先を見ると,大きな杉の木で作られた傷だらけの柱が2本立っていて,その先には完全に倒壊した建物の瓦や大きめの木材のが残っている.きっと男が言っていた神社跡だろう.男が本当の事を言っていたようなので少しだけ安堵する.
 男は鳥居を超えた先の水たまりと言っていた.眼の前にある2本の柱がきっと鳥居のことで今は崩れてしまったのだろう.少し男の言い回しに違和感を持ちながらも鳥居だったものをくぐり,水たまりを探す.
 鳥居の先には2個所に分かれて石像の欠片のようなものが固まって落ちている.それらはかなり風化していて,石像が何を模していたのかはわからない.
 後ろからなにか生き物が草むらや木の枝を嗅ぎ分けている音が聞こえた.

一瞬だけヒヤリとしたものの,周りには何もいない.赤みがかっていた空の色は少しずつあじさいと川の色が混ざり始めていることに気づいた.今夜はここで野宿をしなければならないようだ.少しだけ商人の様子が心配になる.

 そう思ったのもつかの間,後ろから速く,そして荒い息遣いが聞こえる.かなり大きい獣だろう.恐る恐る振り向くと大狼と狐を合わせたような生き物がそこにいた.その生き物の体毛には大量の血がついたまま固まったようで太い針で体を覆うように見える.
 その血の乾いた獣は今まで自分が見てきたものとは大きさ,恐ろしさ,そして美しさ,全てにおいて今まで見てきたものとは別格だった.体だけでなく心も動かせず,まるで時が止まっているような感覚に陥る.これが,もっとも恐怖し感動しているということなのかもしれない.

 少しだけ意思を取り戻し,この場から動き出そうとしたときに右腕のあまりの軽さに驚く.一歩目を踏み出すと音を立てて水がそこら中に飛びかかる.足元を見るとそこには水たまりがあった.
「やっと見つけた 」
 思考が働き出す.すぐにこの水を汲み取ろうと左手を水たまりに向けようとしたとき,突然視界が歪み,周りの景色が黒ずみ出した.
「食われたのか」
倒れ込んだ拍子に自分の右腕がみえた.そして,この水たまりは曹達が湧いているのではなく,自分の片側から大量に流れ出てできたということをようやく理解した.
 
 もう視界には何も映らない.
ーこれで俺の分は取り返せたか
近くからあの男の声が聞こえた気がした.


「おとう,はやく起きて,遊ぼ」
 遠くから美玲の声が聞こえる.ゆっくりとまぶたをを開けた.いつも,毎朝見ていた家の天井が目に入った.

 慌てて布団から飛びのいて右手を見る.すると,変わらず右手がそこにあった.夢を見ていたのだろう.そう思えばあの獣も納得がいく.だって夢だったのだから.
「あなたもう大丈夫なの?」
 家の扉が勢いよく開き,幸が飛び込んできた.
「おはよう.何かあったのか?」
幸があまりにも慌てているので事情を聞いてみる.
「何かじゃないよ!あんた昨日,帰りが遅いと思ったら,村の前に倒れてたんだよ!」
 幸が怒っている.どうやら曹達を探しにいくのは夢ではなかったらしい.でもなぜ,右手が生えてきたのか.どこまでが記憶でどこまでが夢かわからない.狐に化かされるとはこのことを言うのだろう.もしかしたらあの商人事態がなにか仕掛けがあって村の全員が化かされたのかもしれない.
「おとう,はやく遊ぼ」
 美鈴が勢いよく布団をめくりあげた.遊んでやりたいとは思っているけれど,それ以上に外の声が気になる.
「だれか村に来ているのか?」
「いろんなひとがね.あなたがあの商人について行ったあと,曹達が欲しいってたくさん来てるの」

 まずい.
 直感でそう思った.あの商人が結局どれかはわからなかったが,あの話が本当ならば,村でコロリという病が蔓延してしまう.
「みんなあなたが行った山に向かおうとしてるわ」
 それなら,正直なところありがたい.あまりこの村に長居してほしくないと失礼ながら思ってしまう.
「とりあえず他の商人は私が相手するよ.だから他の人はあまり近寄らないようにしてくれ」
「どうして,ううんわかったわ.ご飯作るね」
きっと聞きたいこともあっただろうに,幸は話しを流してくれた.我ながら本当に恵まれていると感じる.
「いや,ご飯は後で食べるよ」
 胃の振動を感じるが余計なことを言わないように急いで着替える.少し言い方が冷たくないか心配になる.
 家を出るとたくさんの人だかりが村の中央にできている.人だかりの真ん中に誰かいる.人の波をかき分けて行くと向かいに住んでいる義人が対応をしていた.「ここからは私が変わるよ」
「ありがたいけど,もう動いても大丈夫なのか?」
「大丈夫だ.問題ない」
 幸もそうだったが,村のたくさんの人に心配をかけていたみたいだ.少し体が重たくはあったけど,これ以上心配をかけたくない.
「なぁ,あんた!ここに曹達があるんだろ?」
 義人を囲んでいた一人に声をかけられる.そうとう焦っていた.きっとあの商人と同じなのだろう.
「申し訳ない.この村にはないんだよ」
 そう言って,村に来てしまった,たくさんの人をなんとか説得する.夢か記憶かは定かではないけど,あの場所は良くない.なんとか自分の家に帰ってもらうことにする.そうしているうちにその日は暮れていった.

「ご飯作ってあるから食べて早く寝てね」
 幸が心配そうに言った.そんな幸に礼を言い,料理に手を付ける.疲労も空腹もあり,いつも以上に料理が美味しく感じる.こんな生きている心地がしていない状態でもそんなふうに思う自分を不思議に思った.
「おとうあんまり無理しないでね.今日来た人たちも具合悪そうだった.きっと,おとうみたいに頑張りすぎてる」
 自分も遊びたいはずなのにこちらの心配をする美鈴が可愛くて仕方がないと思うと同時に.ゾッとした.あの中にコロリを持っている者がいる.おそらく今,村はかなり危ない状態である.なんとかここに来るものを制限し,来た者たちは素早く別の場所へ移す方法を必死に考える.
「いいかい美鈴.明日からはこの村の以外の人達に近づいちゃ駄目だよ」
 もう自分だけではどうにもできそうにない.
「幸,急用だ.義人のところに行ってくるよ.美鈴と先に寝ててくれ」
 美鈴のことは幸に任せて,義人と村へ話しを通しに行くことにする.
「美鈴,ごめんな.おとうはちょっとやらなきゃいけないことができてしまったよ.だから,全部終わったら一緒に遊ぼうな」
 美鈴がコロリをもらっていない事を祈りながら頭を撫でる.柔らかく優しい手触り,美鈴の心と同じだと感じながら玄関をあとにする.

 再び家に戻ったとき,美鈴が夕食をもどしたと慌てた幸が話していた.そこで私の思考は止まった.

 朝になっても美鈴は2回ほど嘔吐を繰り返していた.これがコロリという病の症状なのだろう.幸には美鈴に触れさせなかった.なにからコロリが移るかわからなかったからだ.
「おとう,気持ち悪い」
 美鈴が息も絶え絶えにつぶやいた.また吐いてしまうのだろう.もう出るものもないだろうに,美鈴は吐き続けている.このままだと美鈴は干からびてしまうのではないかと心底心配する.

 あそこに行くしかない.
 そう感じた.曹達が本当に手に入るのかもわからないし,またあの獣に出会うかもしれない.怖いけれど,美鈴が生きてくれるのなら命は惜しくない.
「幸,話したいことがある」
 幸にすべてを話すことを決めた.
「何を言ってるのかわからないかも知れない.私も何をされたのかわからなかった」
 すべてを話すと幸はぽかんとしながらこちらを見つめていた.当然だろう.
「理解してほしいとは思わない.とにかく私が帰ってこれなかったら美鈴のことは頼む」
 幸が近づきすげてコロリをもらわないよう忠告し,美鈴を託す.そうして決意を固め,家を出た.

 野狐火山は静まり帰っていた.商人と来たときにあれほど謳歌していた蝉の声すらも聞こえてこない.まるでなにかから逃げるように,生き物たちは隠れてしまっている.
ー 君,生きてたのか.
 肩に手を置かれ振り返ると,あのときの男が真顔でこちらをみていた.
ー あれから戻ってこなかったからもう死んだと思ってたよ.それにしても人に見とけって言ってたくせに君はあのまま帰ったのか.
「私だって気づいたら家にいて驚いてるんだよ.何が起こってるのかもわからない.それより彼はどこに?」
 悪者にされたくはないが,それ以上に商人のことが気になる.目覚めてから村の騒動や美鈴のことで手一杯になってしまい,確認にこれなかった.
ー 彼なら死んでるんじゃないか?
 この男はこちらの頼みを無視し,大変な状態の商人を放っておいたのだ.そのくせして,こちらが帰ってきてないことを攻め立てている.それを知り,「なんで私がこんな目に合わないとういけないのか」,「なんでこいつは人の心がないのか」等々,負の感情が完全に決壊していく.
ー そう怒るなよ.前も言ったじゃあないか.誰とも知らないやつのために自分の生活を犠牲にするなんて愚の骨頂だと.
 声には出していなかったけど,自分の恨みつらみが顔から溢れ出ていたらしい.男はこちらをなだめるように主張する.ただその主張すらもこちらをおちょくっているように感じる
「お前みたいなやつがいるから」
それ以上は言葉に出なかった.出せなかった.
 ー どうでもいいな.で,お前はなぜここに戻ってきた?まさか,あの商人のためではないよな.そんな雰囲気ではない.もっと別にあるはずだ.
 男はこちらの心を見通すようにジロジロと粘着質な声色で語りかける.こんなやつに話したくはない.でもそんな自分の浅ましさよりも大切なものがある.
「娘が」
そこまでしか言葉にならなかった.あとは嗚咽と共に口元から消費されていく.
ー お前たちのようなものが考える優しさは業として降りかかると言ったじゃないか.自分の大切なものだけを守ればお前たちは幸せになれるのに
 男の言葉が私の体の中で強く共振した.自分が間違っている,自分のせいで美鈴がコロリにかかってしまった,そんなことばかりが頭の中を占める.
ーほら,そうしているうちに時間は立っていく.君は今すべきことがあるんじゃないのかい?
「そんなことはわかってるけれど」
 後悔しても遅いこと,悲しんでも仕方ないことはもちろんわかっている.それでも気持ちは勝手にそちら側に転がっていく.制御なんて端からできない.
ー 本当に人間とはめんどくさい生き物だ.ほら野狐火山に行くんだろ?俺の時間がもったいないから早くしろ.
ー まさか君みたいなやつが手伝ってくれるのか?
 あまりに驚いて,かなり礼を欠いた話し方になっていた.
「お前がここに居座られても面倒なだけだ」
 彼は言い方は悪いがきっと根はやさしいのだろう.おそらく,あの商人を看取ってくれたんじゃないかと思い直した.

ーおい,急がないと日が暮れるぞ.
 彼に急かされる.野狐火山は前回訪れたときとまるっきり姿を変えていた.あたりは暗く,地面は水っ気が多い泥沼のようだ.まるで山が生きているみたいだと思った.もちろんそんなはずはないけれど,そう思わせるほどの何かを感じた.
 彼に手を引かれ,傾斜が厳しくなってきた道を進む.二人ということもあって,前回よりは容易に足を運べた.眼の前は暗いもののあのときの岩盤が目についた.そして思い出した.
「気をつけろ,あの場所には恐ろしい生き物がいる.私はそいつにやられた」
 彼に事の顛末を話し,警告する.正直,雰囲気は今にもアレが出てきそうでしかたない.
ー 右手は失ってないんだろう?それならそれは夢だよ
 彼はやはり理性的だ.誰しもこんな話をされたら少しは嫌がるなどするはずだ.しかし彼は言われてもなお,変わらず飄々としている.岩盤を登り切るとあのとき見た神社は変わらずいつ崩れてもおかしくない状態で目の前に立っている.

ー この鳥居だったものを超えた先に扉があるだろう?今もあるかどうかわからないがそこにあった.だから,祈りながら扉を開けるといい.
 今まで理的だった彼が感情を込めるよう言うなんて珍しいと思ったがそれよりも美鈴のことのほうが気がかりだったのですぐに頭の片隅に消えていく.扉に両手で触れてみると,扉は朽ちかけささくれていて手にトゲが刺さった.まわりにあの獣がいないか最後まで気を抜かずに扉を押す.扉は重い音を立てながら開いた.
 眼の前にはまるで自分の家のように真ん中に囲炉裏,そして机が置いてある.なぜここだけこんなにきれいなのかは知らないけれど,美鈴と幸のことだけを考え足を踏み入れる.

ー 俺の奪った分だけではだめなのか.
 後ろから彼の声が聞こえ振り返ると,開けたはずの扉はしまっている.
左手で取っ手部分を掴み,押しても,引いてみても扉は開かない.
閉じ込められた.
「開けてくれ」
 彼に声をかけたが,反応がないので扉を叩いてみようと思う.
扉を叩こうとしたとき,何かが足にぶつかった.足元を見ると右手が足元に転がっている.あまりの驚きに近くの机に飛び退いた.こんなところに何者かの死体があるのかと一瞬だけ考える.しかし,その右手は私が思っていたことに反対するかのように握りしめていた拳を緩めたり,握り直したりを繰り返した.あまりにも不気味すぎた.
「なんだこれは」
 机に置いてある文鎮を手に取りソレに投げようと思った.ソレを目線で追って警戒しながら手を伸ばすが,なかなかつかめない.
「全然つかめない,どこにある?」
 あまりにも不器用過ぎたので,目視で文鎮の位置を確認して,もう一度右手を伸ばした.しかし,右手はずっと空を切る.その時になってようやく気づいた.痛みも無ければ,違和感もない.むしろ間隔はつながっているけれど,自分の右の手首の先は何もなかったのだ.
「まさか,あのとき私を化かしたのはあの男か」
 一つの結論にたどり着いた.気になって,自分の右人差し指を立ててみる.握りしめていたソレの人差し指がゆっくりと上昇する.

ー また,私のせいで.
戸惑いと困惑の中,一つの事実を知った瞬間,その声はこだました.そして,ソレはまるで別の意志も混じっているかのようにトコトコと歩いていった.

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