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故・お姉ちゃんのこと〜おもて編

明日は姉の命日。
彼女は39歳で自らの命を絶った。
もう20年以上前のこと。

両親の新婚旅行先の佐渡島で授かった子供だからって、父親が姉を「佐渡子」と名付けそうになって母が止めたらしい。

身籠った身体で母が新生活を始めた家には、姑と弟と妹が同居していた(私が生まれたころは叔父も叔母も結婚して出て行っていた)。

後年本人から聞いた話によると、幼い頃の姉は、嫁姑の話し合いの場の真ん中に緩衝材として座らされたり、わけもなく急に箪笥の陰で母にぶたれたりしたらしい。
中学生の時、訳あって夜更かしして千羽鶴を折っていたら、夜中に酔って帰った父に「なんでまだ起きてるんだっ!」って殴られて、顔が1.5倍くらいに腫れちゃって何日も学校を休んだこともある。(兄と私は翌朝、姉の血で真っ赤に染まった座布団を見て事の次第を知った)

姉は私の名付け親である。
両親の意見が合わなくて名前を決められなかった時に、当時5歳の長女の鶴の一声で決まったとか。

三人兄弟のうち姉だけが運動部に所属していた。
記憶の中の姉はいつも外で活発に友達と遊んでいて、兄と私は家で黙って本を読んだり絵を描いたりしていた。
姉だけが社交的でリーダーシップがあった。兄と私はモジモジして眩しく姉を見上げていた感じ。
(そーいや姉の存命中は正月に皆で集まったりした。亡くなってからは言い出す人がいないから集まらなくなった。兄も私もワイワイするのが苦手だからでもある。)

長じて姉は就職しても頑張り屋さんで、会社の運動部で活躍したり、資格をいくつも取ったりしつつ、やり繰りして自分の結婚資金を貯めていた。

姉がハタチくらいの時、結婚を考えていた相手のお母さんが身元調査をしてきて、こちらの父親が金融のブラックリストに載っていることを理由に別れさせられ泣いていた。
ほぼ同時期に、姉の箪笥から預金通帳と印鑑が消えた。父親が持ち出して使い込んでいたことが後にわかる。

そんなこんなで、姉が中心になって、母親の相談相手になり、両親を離婚させた。
父親を説得し、母を元気づけ、兄弟に話し、書類を用意し、方位を調べて引越し先を決めた。引越しには姉の男友達が何人も来て手伝ってくれた。
当時彼女は22歳。

離婚後の3人暮らしは貧しかったけど自由だった。(兄は新聞奨学生で下宿先から大学に通っていた)
自由だが傷は残っていた。少しでも父親の噂をすると姉は嘔吐した。母は円形脱毛がいくつもあったし、私は高校時代の記憶があまりない。(後に同級生から「急に泣き出す時があって心配だった」と言われたけど覚えてない。鬱だったのだろう。)

それから4年ほどして、妹(=私)が姉より先に21歳で結婚して家を出た。
姉が父親に邪魔されてできなかったことを、妹はなんの障害もなくやってしまった(やがてぶっ壊す結婚だけどそれはあとの話)。

姉はやがてアパートを借りて一人暮らしを始め、28歳くらいで結婚した。義兄はとても優しくて姉を大切にしてくれていたけど、長期海外出張が多く留守がちだった。
姉は結婚前から精神的に安定していなかったが、結婚後さらに不安定になっていく。
ピンと張り続け過ぎて、誰かを頼れるようになっても緩め方がわからなくなって絡まっちゃったんだろうか、心の糸が。。。

そして私が34歳の時だった。
何度も薬を過剰摂取して病院に運ばれる姉に対して嫌気が差し始めていた頃、勤め先でひとり店番をしていたら兄から電話がかかってきて、姉の死を告げられた。
本当に逝ってしまったら、あの嫌気は深い罪悪感に変わった。
上司に相談して交代要員を寄越してもらい、新宿の病院に駆けつけたらもう全てが片付いて、彼女は霊安室にいた。

3月29日。あの年の桜は早咲きだった。

棺の中で眠っているような綺麗な顔を見ても、泣いたりはしなかった。
現実感がなかったんだと思う。
義兄と兄が先に帰っていいよと言ってくれたんだったか、母と二人で、帰りに甘味喫茶に寄ってなんか甘いものをぼそぼそと食べた。しるこだったかあんみつだったかはもう忘れてしまったが、ご飯を食べる元気はなかったことだけは覚えてる。

その母も今はいない。
やがて義兄も兄も私もみーんないなくなるんだから、生きるって滑稽でもある。諸行無常。
まぁ、だからこそ日々をしっかり生きるんだけど。。。

ちょっと姉の生涯を辿ってみようかなと思ったらこんな結論になっちゃった。
ご飯作らなきゃ。おしまい。

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