言葉といのち

友人のお母さんが、脳梗塞の後遺症で言葉を理解しなくなってしまったと聞いた。
話せないし、話しかけても理解できない。当然コミュニケーションはとれない。
眼差しや仕草や触れ合いがあれば通じ合えるだって?愛があればだって??
いや、陳腐な歌の歌詞じゃあるまいし、限界があるだろう。

言葉を失ってしまったら、思考はどうなるんだろう?と考えた。
思考を失ってしまったら、人格はどうなるんだろう?
その人であり続けられるのだろうか??

若いころ大怪我をして整形外科に入院した時、同室に首から下が全く動かせない患者さんがいた。
お鍋を持ったまま後ろに転んで首のあたりを打って、頚椎を傷めてしまったそうだ。
ずーっと横になったまま、彼女はよく冗談を言って笑った。とても良い人だった。
当たり前だけど、ほぼ全身が不随でもその人はその人としてしっかり生きていた。

でも、、、
思考を失ったら、その人はその人だといえるのだろうか。
食べて出して歩いて動いて見て聞いて触ってということが当たり前にできても、頭の中は全て「・・・・・」だったら。
こんな怖いことがあるか?
目の前で娘が何か声を出してるけど全然わからない。TVの内容も全くわからない。じゃあ本を読もうと開いてみても、何が何だかわからない。
看護師が来て何か言う。わからない。
それならもーいいやと何もせず横になっても考えが浮かぶことはない。
言葉がなければ妄想もできないのかな。無声映画みたいにできるのかな?

言葉のない世界を生き続けて、思考を失ってしまうとしたら、それでもその人だといえるのかな。生きてるっていえるの?

生きるとは、すなわち思考なんじゃないかと私は思う。人格とは、性格とは、イコール思考だろうと思う。
言葉を失うことは、手足を失うより怖いような気がする。何だって失いたくはないけどさ。

さっきからとりとめのないことをずっとずうっと考えて阿呆みたいだけど、こうして考えられることは恵みなのかもしれない…

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