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フタゴボシからヒトツボシへ

とても繊細な場所で光るその星を、傷つけないでいられるかという点で怯えてしまっています。コミュニケーションの上では相手を傷つけてしまうことは起こり得ることだと思っていて、それこそ弱さを隠すための鍵をこじ開けることだって私はするでしょう。ですが、自分自身が傷つくよりもその人の大切なものが傷つくことを辛いと感じる人がいるのも知っているので。
(この書き出しは10/23のようです、だいぶ経ちましたが変更せずにそのまま続けることにします。空白の時間がとても長くなりました)


言われなくても全部わかってるよ。と言われてしまう内容かも知れませんし、あまり気分の良いものでもないかも知れません。それでも、連星からの私の連想を、私のために言葉にしておきたかったので。


私は自分に似た人を求めている。その似ている人という一つの解として(それは絶対に叶うことはないけれど)思い付くのが、双子(一卵性双生児)という存在。

遺伝子も、(多くの場合は)生育環境も同一であるけれどそこには明確な違いがあるはずで、その差をもって自分というものを見つめることが出来るのではないかと考えたこともある。(この考え以外にも、双子を対象とした研究は現実でもフィクションの世界でも無数に実施されているはずだ)

この考えは、当事者の方に言わせればひどく失礼なことかもしれない。でもそんなことすら言われないと気づけないくらいに、私は双子というものを特別視していたのだが、これは私だけだろうか。もしかしたら、社会や当事者である双子達でさえ、そうなのではないだろうか。

それは仕方ない側面もあるだろう。2人のその差がまだ少ない幼児期に双子を見たら、多くの人はそれを特異なものとして見てしまうと思う。双子のその出生率は、見慣れるには少なすぎるが全く見ないという程でもない。その特異な目に曝された双子たちもまた、自分たちの関係性は特別だと、そう思わずにはいられないのかもしれない。もちろん、特別なものであってもそれ自体はおかしな事でもない。だから逆に、互いの少しの違いも理解出来ないという事態も発生し得るし、その違いを突きつけることに怯える気持ちも分かる気がする。


双子に対する私のイメージの元となった人たちを書いておこう。私の人生においては2組の双子と関わりがあった。

1組は保育園時代の同い年の男兄弟。私と彼ら2人は親のお迎えが一番遅くて、よく3人で遊んでいた。2人はとても外見が似ていて、保育教諭たちも見分けがつかないことも多かった(ので、服に識別マークをつけられていたと記憶している)。けれど私は完璧に見分けがついていた。どちらかというと弟の方が好きだったこともハッキリと覚えている。見た目はたしかにほぼ同じだったが、その身に纏う雰囲気やちょっとした動作で判断していたのだと思う。私達3人は保育園の誰よりも仲が良かった。

小学校は別で中学校で再会した時には、誰でも見分けがつくほど外見に差が出ていたし、ベースとなる性格はかなり近かったがやはりそこにも差は確かに感じられた。兄弟と言われればすぐに納得するが、双子と言われると一瞬間が空くくらいの差になっていた。その時私は、少しがっかりした。誰も見分けがつかなくても自分だけは分かっていた、という謎の優越感が消失したからだ。結局私も、(各個人として好きだったのは事実だが)双子であるという特異性に(も)価値を見出してしまっていたのだろう。


中学校のときにはもう1組の姉妹も同じ学年にいた。1年生の時に姉、2年生の時に妹と同じクラスになって、どちらとも年頃の異性としては比較的よく会話するレベルの仲になっていた。外見はほぼ同じ、でも雰囲気が違うのでほとんどの人が間違うことはない程度にしか似ていなかった。

ある時、内容は忘れたけど妹の方に向かって「お前ら全然似てないな」ということを言った(のだと思う、あまり覚えていないがそういう意味合いのことを言った)。そして、相手が気にしていなかった(伝えたいことが伝わっていなかった)とはいえ、失言だったと今は思う。

というのは、この姉妹はどちらの方が可愛いかとか、どちらの方が好きかとかの質問をしてよくからかって(割と誰にでもして)いて、私は妹の方に好印象を持っていたが、全て「興味がない」と答えていた(双子でなければ、それぞれの良い点を述べて「比べられない」と答えるのだが、この双子は必ず比較をするだろうと思っていた)。2人に点数をつけるみたいで嫌だったのだ。だから平等に0点にしていたものの、妹の方に「似てない」と言うことでそこに差は感じている、ということを伝えようとしていたのだ。伝わってなかったけど。

これは、「双子だから似ていて当然だ」という前提があるから「似てない」という言葉を使ったり、「双子だから平等に扱わなくてはいけない」なんていうおせっかいな心理が働いているということで、それは彼女らを個人として見れていなかったということになる。


結局のところ、まったく別の存在であるという意識を誰しもが持たなくてはいけないのだと思います。


双子の2人の共有する重心――いっしょに育ってきた中での共通の価値観や互いを思ったり支え合う気持ち――は確かにあるだろうし、それは羨ましくも感じます。そして、そこから反れないように外れないようにと繋ぎ止める添え木やリボンのイメージも観念できるし、それは安心出来るものだとも思います。

でも、その添え木に文字は刻まれていませんか。家族、双子、姉妹。どんな文字でも、それがある限り純粋に愛することは難しいのかもしれません。その輪の中をどれだけ2人で定義してもその添え木の文字が強すぎる。周りから、そして自分たちでさえもその添え木のイメージに冒されているのかもしれません。

縛り付けるリボンは解いてしまって、その両端さえ互いに持ち続けていればそれで足りる気がします。たとえ、強い引力を持つ何かがどちらかに寄ってきて、その片方がひかれていってしまってもそのリボンはきっと断ち切れない。手繰ることは憚れても、その緊張と弛緩を繰り返すリボンの先の、そこにひそむ戸惑いに気付いて、時には強く引っ張ってもいいと思うのです。それが出来る関係だと思うのです。

あなたにとっての、その○○おしい(と表現したいであろう)相手との重心は釣り合い(→←)が取れていて、添え木も、それと結びつけるリボンも本来は必要ないのだと私は思います。実際のところは分かりません、でもそうなりたいという想いがあるように私には感じられます、双方に。


添え木は、いつか外すものでしょう。それは治ったときか自立できたときか、いずれにせよ添え木がなくなっても安定している状態、それが理想的な状態なのでしょう。

自分勝手にそのリボンを解くこと、釣り合いの取れなくなった力で崩壊してしまうのを恐れること。それは、当然あるのでしょう。ですが、それはもはや添え木ではない気がします。

まるで連れ立って歩くことを運命づけられた、それは軛のように感じました。相手と共通重心をもって円を描いていたと思っていたそれは、併走を余儀なくされた苦難の道かもしれません。

自立することを、はぐれないことを、それを支える役割の添え木でなく、それこそが身動きを取れなくさせる軛ではありませんか。

添え木からも軛からも解き放たれてしまったほうが、本当の相手を見ることが出来る気がします。添え木を軸にした対称の位置関係でも、軛に繋がれた左右の位置関係でも、その状態では見える面は固定されてしまいます。相手の見える面と相手から見えるこちらの面、そこにどれだけの共通項を見出しても、その裏側までは分かり合えることはないのかもしれません。裏側まで同じであることを(無意識レベルでも)望んでしまって、息苦しく感じることだってあるでしょう。

でも、だからこそ、その軛を解き放って互いに隅々まで見つめあう機会をつくれるのは、繊細なままでいられなかった(“わたし”を守るための“僕”をこの世界に生み出した)あなたが負う役割なのかもしれません。ですが、その役割を担うのは、あなたが(それは本当にささいな違いの)先に取り上げられたからという、それだけのもので負いたいものではないと思うのです。設計図がたまたま同じだったというだけで負わなければならない道理もありません。あなただから、そしてその相手だからという、もっと根源的で純粋な、添え木の文字に関わらない本質的な感情がそこにはあるのだと思います。


2つの星が、今どういう輝きや位置関係にあるのかは分かりませんが、お互いの幸福を願う気持ちだけは同じではないかと勝手ながらに思います。


このように感じさせる言葉や感情を、私は醜いとは思えませんでした。そう、これが言いたかっただけなんです。読んで感じたことをただ綴っただけです。肯定しているつもりも否定しているつもりもなく「詳細は分からないけどあなたの言葉は私は好きだな、裏も表ももっと見てみたいな」と言いたかっただけの4000文字の独り言です。


この話のイメージと重なる曲があります。

“いつかいつの日にか
君がわたしのこと
泣かずに思い出せるように
君の物語の邪魔しないように”

『ヒトツボシ』作詞:福山雅治

この曲を聴いたのは連星の話を読む前でした。
(そして私は歌詞のイメージに非常に影響されやすいのでこの記事を書こうと思ったし、夢についてもあのような文章が出来上がったのだとも思います)

聞き込めていないので朗読にしました。


投稿が遅れて、歌えるタイミングがあったので、うろ覚え状態ですがこちらも。


フタゴボシのそれぞれが、互いにとっての無数にあるうちの一つの星になることも、特別なヒトツボシになることも出来るのではないかと思います。そして、それにお互いが気付けるように“叱り合う”ことも出来るのかもしれません。

フタゴボシが寄っては離れ、離れては寄り添い光を振りまくその様は、煌めいていてとても美しそうです。



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