大富豪で切られたカードで神経衰弱する

はじめに 前置き

なにかの問題や課題に対して声を上げるというのはなかなかにリスキーなことで、実生活においてもネット上だけでの活動だとしても、その影響がどの程度になるかは考えるところでしょう。たとえ社会に影響は無くても自分の属する小さなコミュニティには伝わってしまう場合に、テーマに触れないという選択をするのも理解できますし、逆にそれでもなお可能な範囲で意見交換できるというのは、ありがたくて有意義で嬉しいものです。

余談ではありますが、そういうある種の主張をするために、専用アカウントを作るという手段を採る人は多いと思います。でも、そうした場合のほとんどは、好き勝手に訴えかけられるというメリットが強く出て、押し付けがましかったり言葉が強かったりして気持ちの良いものではありませんし、それを見た第三者は“そっち系の人”ね、と見做して真に受けないのではないか、という思いもあります(少なくとも私は相手にしません)。そういう思いでいる私ですから、一般人としてのこのアカウントで好き勝手に主張をしています。その方が、知識の多寡や思考の浅深は置いておいて、真面目に考えているということが伝わるだろうと考えているからです。そしてその目的は、読んだ人にも自分自身で考えて欲しいからに他なりません。考えることを押し付ける気もありません。考えたい人だけが、その事柄の優先順位が高い人だけが考えればいい。そういう思いはきっと同じなのでしょう。


命題の脇道

脇道。というか、別の話題にしてしまいましょう。これもなかなかにセンシティブではありますが……

ビーガンという思想があります。その分類は細かすぎて割愛しますが、その主張の多くは人間の傲慢さが根っこにあると思っています。ゴールもそこへのプロセスも非論理的なものも多いですが、全てが理に適っていないわけでもない。とはいえ、一体何を目指して、そしてどうやってその環境に持っていくのかが明確になっていないので私は賛同できる思想ではありません。以前、捕鯨やイルカ漁をやめろという運動が話題になっていましたが、まだあちらは宗教的な価値観というのものに裏付けされていたように感じるので一定の理解は出来ました。(もちろん、同意も賛同もしませんでしたが。)


あとは、直近で大手ドラッグストアが全店舗に暖房使用の禁止を通達していたという報道がありました。炎上していた会社は通達の事実を認めて、その理由として政府の節電要請への協力であったと回答しています。

労働衛生法違反の可能性に目を瞑るならば、私としては「酷いな」とは思うものの、無くはない意思決定(経営判断)だと思います。暖房禁止という意思決定には、政府要請に応えるという視点、政府要請に関係なくSDGs的なものに取り組むという視点、経費節約という視点などが挙げられます。

批判の多くは、経費節約目的だろうと決めつけていました。というよりも炎上している事実が、世論がそう感じているということを裏付けているわけです。あれだけテレビやマスコミがSDGsやらを喧伝しても、「エコノミー>エコロジー」という価値観の図式は払拭できないどころか、当たり前過ぎると思っているためにこの図式を意識下にすら置けていないのです。

実際にこの会社がどういう意図で行ったのかは分かりませんが、理由として節電を述べたことにより、より不誠実だと捉えられたのでしょう。
(経費節約のためと言っていたら、叩かれるのでしょうが、そこまででは無かったのではないかと思います。手段を間違えて信用を失ってはいるものの誠実さはあります。言い方を変えると「清々しい愚かもの」となり、私は嫌いじゃなかったのですが。)
なんというか、この会社も、報道したメディアも(このメディアはきっと、会社の回答が経費節約とは言わないということを確信していたと思います)、このニュースを面白おかしく叩く一般大衆も、ただ単にそういうムーブメントを私的に利用しているだけで、登場人物全員がことの本質なんて理解していないし、する気も無いのだな、と透けて見えて、もやもや、いえ嫌悪感を覚えました。


「問題を分解して、そこに優先順位を設けること。そしてその優先順位に決めた理由を自分の言葉で持っていること」

言葉にすると簡単ですが、どうやらこれが難しいらしいです。どれだけ中立国の内側から手招きしても、自分の立ち位置すら掴めていない人に、中立国の国境を跨ぐことは出来ないのかも知れません。とはいえ、その人の意思を無視して強引に手を引く“何か”を看過することも出来ない私達は、損な役回りなのかもしれませんね。そして、自分で言うのはなんですが、それが出来るのは十分に強いからだと思います(芯があると言い換えてもいいです)。現実の中立国も、経済的にも軍事力的にも弱っちかったら成り立たないものですからね。


問いと感想

コミュニティに示す。
ある関係性を名付けるにあたりそれを用いる。

名前は重要ではなくて、その存在を象るために名前をつけただけに過ぎない。だから、目的にはなり得ないし、そこに確かに存在するということを示すための記号として、その言葉をあてがう。うん、それはあっても良いし、きっとそれは本来ならば普通なことだ。それはただそれだけのもので、それ以上に何か意味を付与する必要なんてない、けれどもコミュニティに示すという機能は、コミュニティやそこに含まれる個人に多様な解釈や意味付けがされるという側面がある。それに惑わされる必要はないと思うし、その言葉自体にも惑わされる必要もないのかもしれない。

だから、もし誰かからその言葉を言われたとしても、その意味について一つ一つ確認して行くことで、それはもう別の言葉として認識しても構わないんじゃいかって。もちろん、それが出来る相手である必要と、確認しあってもいいとあなたが思える場合に限るけれど。と、そんなことを思いました。


余談への言及

最小限に。

引用記事、確かにはるか前に読んでいますね。その時たぶん私は「ふーん、いいんじゃない」と思ったのだと思います。だってもうそこに在るものをどうこう言ってもしょうがない。気持ち悪いものは気持ち悪い、でいい。そこに更に“何故”を重ねずにはいられない気持ちは分かりますが、答えが出るかも分からない以上、受け入れていくしか無いのかなと、思ったりもします。

ただコミュニティに生きる以上、周囲への配慮やら付き合いやらに傷つくこともあるのは事実だろうし、特別な何かを求めた時に相手にスタートラインをしっかり認識してもらう必要はあるのでしょう。もちろん相手のスタートラインを認識する必要もあって、それは双方の歩み寄りでしか成り立たない。

このスタートラインの歩み寄りについて、人と体温が低いことくらいでしか見分けがつかない人外とのハーフが主人公の漫画を3巻まで試し読みしたんですけど、主人公の幼馴染が発作を起こしてしまう回で主人公のこんなセリフが出てきていました。

「(発作の引き金になる行為を相手がしてしまうなんて状況を作り出しておいて、)これのどこが『気をつけて』るんだ。相手に人外の(発作のこと)をちゃんと教えてなかったな。嫌われるのが怖いだけじゃないか、大事なことはちゃんと言えよ」

他人なんて、所詮は宇宙人同士で、別々の生き物でしかないのかもしれません。でも、私達は言葉を使える。人と人外でも歩み寄れる。この幼馴染は言葉の限りを尽くせていなかったがために悲劇に遭いましたが、裏を返せば防げていたはずのことであり、それは分かり合えるはずだったとも言えます。あるいは、一度失敗してもやり直せるということが言いたかったのかもしれません。

吐き気をこらえて、理解してもらえないかもしれないという恐怖に怯えて。でも、それを乗り越えた先にある共有点を抱えて歩ける存在に出会えないとも限らない。夢見る必要はないけれど、可能性の一つとしては持っていても悪くはないのかな、と思います。


おわりに

常々思っているんですけど、みんなお金大好きですよね。不思議なくらいに。

このお金大好きっていうのにも色んな理由があって、どれくらいの価値を置くかという優先順位も違うし、どこに使うかという目的の優先順位も違うし、お金稼ぎ自体に価値を置く人もいるくらいだし。

結局はお金を何に変換していくかというところがポイントで、そこの部分ってちゃんと話し合わないと理解し合えないのに、なんとなくお金=大事っていう共通の価値観があるとみんなが思っていて、色んなことを見落としてしまうのかなーって思ったりもします。

トランプゲームに大富豪というのがあります。詳細は省きますが、いち早く手札を切り終えた人が勝ちです。手札の弱いカードを早く切って、強いカードを温存しておくというのが勝ち筋です。

みんなお金(大富豪)を求めて、数字という絶対的指標で評価された弱いカードから切っていく。その切り捨てられたカードをかき集めて、何か出来ないかと、神経をすり減らしているような気持ちになることがあります。

やっぱり、私達はちょっと損な役回りをしてしまいがちなのかな。でも私はね、そんな自分のことが嫌いじゃないんです。


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