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実父介護のきっかけ 2

それは、コロナが蔓延し始めた時期だったため、家族でさえ病室に入ることを許されなかった。

それなのに、手術前の時間だけ特別に家族で父に会うことができた。「特別」がどの場合になるのか、意味することが怖かった。

父は、左の麻痺が進行していて、父の左側にいると視界に入れない。どんどん様子が変わる父。

多分われわれ姉妹も母も、よっぽど暗い顔をしていたのだと思う。

父は長女に、「夫は元気か?」と聞いた。
長女の夫は背が高く、いつも食べ物の話をしていて、冗談を言ってばかりいる。毎回ダイエットを始めた話をして、結果が出たためしがない。

「元気だよー。」と答える姉。
「コロナが逃げてくじゃろ。」と笑顔をみせる父。

前代未聞の感染症の拡大により、私達は突然限られた生活を余儀なくされた。日本だけでなく世界が、ウィルスの猛威に恐怖を感じていた。未曾有の出来事だった。

そのとき父が表現したコロナは、背が高くて格別に明るくて、どっしりと大きい男の人から逃げている、可愛い小動物のように聞こえた。

父らしい冗談だ。

父の身体をさすりながら、泣く一歩手前みたいな顔をして「もうちょっと頑張ってね。」という母。
「ちょっとでよかとか?」と揚げ足をとる父。

悲壮感漂う私達4人を、父はのんきに笑わせようとしている。

怪我をするずっと前から、父は繰り返し言っていた。

みんなむこうさん(向こうの世界)いってしまったけん、おいやもうこわくなかばい。酒を飲む相手も将棋指す相手もみんな向こうにおるとじゃけん。ともだちのみんなおっとじゃもん。

にこにこしていた。

前々からわかっていた。
寂しいのは私達だけで、父は自分の人生に満足している。

こんな時にも私達を笑わせようとしている。

これが最後なのかもしれないと思うと、父に抱きついたり愛情のようなものを伝えたい気持ちになった。日本人に生まれたばっかりにこんな時さえ、そんなことはできない。「ざけんじゃねーぞ」と思った。愛情を素直に表現できないことがつらかった。

せめて、「父の娘で良かった」と言いたかったが、最後の挨拶みたいで言えなかった。何かを伝えたいのに、何を言えばいいのかわからない。

父は、20年くらい習字をしていた。仕事を引退した後は、毎日和室で4〜5時間習字をしていた。本気だったと思う。旅行の時以外毎日やっていた。自立心と自律心。父には自分の中にある希望を現実にする力がある。

私はなんとか絞り出して、「ミケランジェロは89才まで生きたけん、パパも頑張らないかんばい。同じ芸術家やもん。」と言った。
いつもそんなふうに父をおちょくり、父は声をあげて嬉しそうに笑う。でもこのときの父は黙っていた。

誰も大事なことは言えなかった。このまま向こうに行ってもらっては困ると思った。

それから5時間かかるという手術を、父は受けた。

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