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社会距離を取る(having the social distances)、日本はなぜ普及していないのか?

 冒頭の写真は東京の地下鉄丸ノ内線の車内です。
 朝なのにこんなに空いています。

 ――何でかというと、お正月だからです。
 今年の元日に麹町と浅草に散歩に出かけました。それらの間を乗ったのがその丸ノ内線と銀座線です。
 丸ノ内線は日本人がほとんどでしたが銀座線は中国人がほとんどで、日本に居ながらにして海外旅行をしたかのような感じでした。

 今般に新型コロナウィルスCOVID-19の対策としてなされている外出の自粛による市街の閑散も、実は正月の映像を見せているのではないかと勘繰ります。
 感染して療養をしている方々はそれらの映像をテレビでもネットでも観ることはできませんが、治った時にそれを見たらどう思うでしょうか?
 別に何も思わないという人も多いでしょうが、自分のせいでそうなってしまった、世間に迷惑を掛けてしまったかのように思って別件で体を毀して亡くなったりする人もいそうです。
 そういう想像力を持つと、今の状況が驚く程に物珍しいからといって人のいない街の映像を流して「おお、凄い!」とか「確かにそうでしょ。」などと毒にも薬にもならない話の種にすることは悪乗りでしかないと思うのです。
 そのような映像は通常の夜中や明方の人のいない時の映像を撮って明るさをちょろっと加工すれば作れもしますし、現実を理解するためではなく人々の混乱に点け込む政治宣伝でしかないでしょう。

 これは昨年の初詣の時の通常の電車内。

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 何で初詣の時が通常なのかというと、私は11月を新年度として新嘗祭のある11月の下旬に初詣を毎年しているからです。先のお正月の散歩は麹町聖イグナチオ教会や金龍山浅草寺などの有名な寺社がありますが初詣ではありません。

 COVID-19に際し、社会距離を取る、having the social distancesということが云われていて静かなブームとなっています。
 よくテレビに出る東京都の小池百合子知事などの権力方が主となって云われていることですがあまり守られてはいないようでブームに留まっています。
 あまり権力の云うことを墨守することや批判を否定することは一概にはあってはならないことですが、社会距離が守られていないことを非難する意見が広く見られ、それに対する批判、即ち「そんなことどうでもいいじゃないか。」というような声はほぼ全く見受けられません。しかし現実には「そんなことどうでもいいじゃないか。」と思ってか守らない人が多いのでその構図は多勢に無勢ではなく、言論の次元では多勢が無勢、行動の次元では守らない多勢に守る無勢という様相です。しかも多勢が被害者意識や劣等感を持っていることが多く、かなりの捩れ現象といえるかと思われますが、日本にはしばしばそのようなことが多く、言論でも行動でも多数が少数を圧するようなことはあまり起こらないのです。むしろそのようなことがかつてはしばしばあったのは西洋で、その反省から今は多数による圧政がないように努められている訳ですが、日本はあまりその必要に迫られたことがない。数と力が一致しないのです。その意味では西洋は日本よりはるかに付和雷同で空気に動かされ易い社会といえますし、故にもこのコロナショックにおいてもパニックの状態を呈するのです。

 小池知事のような公権力が何を云っても聞き従わないのに、その辺りのあんさんやおっさんなどの私人が何かを云うと諾々として聞き従う。それが日本社会の性質です。

 その極めて分かり易い例が今般の社会距離について。

 いわゆるパワハラやセクハラなどという圧迫行為も公権力にはほとんどないけれど民間には絶えない。公権力者にも稀にそれらをする人がいますが多くの場合は私人としての行動という性質が強い。「本来はしてはならないことだけどね、でもここでは別。」という奇妙な論理を持っている。

 それは日本は公共的支配という概念が弱く、私人による私権に基づく支配が広く普及しているからです。なので政治においても世の中を力を以て動かすには公権力者という「仮面」を暫し脱ぎ捨てて私人として「俺なりの独断と偏見だけどさ、」という風に訴えないとならない。そのような出方は、彼なりの人生経験に裏打ちされているので聞き入れるに値するだろうと思う人も多いですが、時にそれが通用しない人もおり、そこにパワハラやセクハラという現象が生じる訳です。
 「俺なりの独断と偏見」という経験則が日本の社会価値。

 例えば整列乗車。
 権力者が今般に打ち出す社会距離という概念は既成の整列乗車という慣行とは相容れないことが分かっています。
 整列乗車は人々が前から順番に詰めて並ぶことですが、距離を取れば整列はできません。
 距離を詰めてさえ、整列すると後ろの人が乗場の反対側の端にかかって線路に落ちる危険があり、そもそも不合理なことです。
 整列とは買物のそれのように先に並ぶ人が先に済ませられるということですが、電車は先に乗ったら先に降りられないので、単純に馬鹿です。早く降りたければ並ばずに最後に乗るのが賢い。
 かように愚かな整列乗車がどうして平成初期に瞬く間に普及したかというと、そこに公権力は一切も関わらずに国鉄が民営化されてまだ若いJRを含む民間の鉄道業者等が私人の私権として客に強制したからです。尚、それを最初に考案したのはサントリーの創業者佐治敬三氏ですが、彼がそれを提唱した大阪の万国博覧会の頃には鳴かず飛ばずで少しも普及しませんでした。それでもちびちびとお酒を舐めるように――呑みっぷりがせこい。――私的働き掛けを重ねてそれから二十余年の後に整列乗車がわーっと駆込乗車の如く堰を切って普及した。公権力を頼らないといえば聞こえは良いですが陰湿な営みです。

 総理大臣が云っても知事が云っても聞かないが駅員が云うと聞く。
 今世紀に知事ブームを作った石原慎太郎氏や橋下徹氏は日本社会のそのような性質を巧いこと利用し、いわば「駅員さんのような知事」を演じたので爆発的支持を得た。総理になってほしい政治家の上位に常に名を連ねていましたが決して総理の座を狙おうとはせず、しかしそのような呼声は利用し、もう少し低い地位である知事という座を狙って獲る。
 石原知事や橋下知事とは対極ぽい性格の舛添要一氏さえ、彼らのような「総理ではなく知事。」という売り方を忠実に踏襲して知事になっています。実際面では、知事は直接選挙なので総理大臣になるような長きに亘る準備を要しないからでもあります。

 しかし、小池知事は彼らのような売り方とは異なり、逆に「総理になりたくてもなれないので知事になる。」という、或る種の「負け」を匂わせる、いわば敗者復活の美しさ或いは「強い逃げ方」を売りにして知事になった。
 人生において様々色々な「負け」を味わって来た人々に――少なくとも四年前は――広く共感支持された。総理大臣になんてなるものじゃないよという石原・橋下・舛添知事とはそこが異なる、いずれにせよもう総理になる可能性はないということは同じですが。

 総理大臣や社長という最高の地位は確かになかなかなれるものではないし、初めから自分とは別の世界と思うのも仕方がないかもしれません。しかしより低くてより強い私権のある地位から「国の指導者というものはだね…、」とか「社長ってこうじゃなくちゃいけなくない?」というような噺を無責任に放談するような日本の歴史的社会風潮は良くないでしょう。なので公権力を尊重せず、公共性を嗤い、社会距離を取らない。駅員さんの云うことには率先して従うが公権力の云うことは決して聞かない。小池知事はそのような日本の歴史的社会風潮、即ち「日本人の心」とは異なる知事、この夏に彼が再選されるかどうか?

 私人の私権による支配という観念からは、社会距離、即ち人と人との距離を保つということはその妨げと意識されます。
 互いの距離が近い程に味も圧迫感もあるからです。味と圧迫感、それがいわゆる安心感や温かさと呼ばれるものですが、公共性にはしばしば反します。
 自動車の運転の際にも車間距離を取らず、数珠つなぎで前の車に追従することを良しとし、それが道路の流れに乗ることなどといわれます。自動車メーカーに勤めていた自動車を愛する私がいうのも何ですが、自動車はその基本的狭さの故にそのように互いの距離を詰めることにより安心感を得ようとする人に殊の外に好まれ易いものです――近年のミニバンブーム以後の車は少し違って来てはいますが。――。
 それでいて異性とは近づかずに同性社会(homosiciety)を形成する。何でかと云うと、異性は歴史的に別世界を形成して来た未知の存在であることから――欲情を催す可能性があるなどの性的なことはあまり関係がないでしょう。――少なくとも直接の支配の対象にはしにくく、異性を支配するためには男子なら男子の妻や娘を間接に支配し、女子なら女子の夫や息子を間接に支配するしか発想のしようがないからです。そのためには家族至上主義が良いということになります。

 そして街に出てもいわゆる三密の抑制ということに心底では反発してわらわらと密集するのはそのような同性社会とその間接支配としての家族至上主義という彼らの価値を日々確認し合うことなのです。

 COVID-19の流行する今だけではなく通常の既定の状態としても社会距離を保つことは大切なことです。正しい欲は社会距離を通して満たされるものです。

#COVID19 #社会的距離 #三密  

 

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