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「外出の禁止」は日本にしかない?!――COVID-19の緊急事態宣言が焙り出した日本の異様さと意外なまともさ。

 おととい4月7日に日本政府はCOVID-19の緊急事態宣言を出しました。

 私はテレビをこの一年半ほどにほとんど全く視ておらず、今般も全く視ていないのでそのことについての情報はネットと昨日の朝に久し振りに買った朝日新聞によるものだけです。朝日新聞のそういう時の見出のつけ方のおどろおどろしいとさえいえるような物々しさは今度もやはりという感じです。

 緊急事態宣言には外出の自粛を国民に求める旨などが規定されています。
 その宣言が出た4月7日は曜日。
 実は緊急事態宣言とには伝統的関係があります。
 「地震、雷、火事、おやじ」という諺がありますが、そうです、大体そういうことです。「そうです、私が変なおじさんです。」という人はいたら手を挙げて下さい。

 日本はこの程に緊急事態宣言を出しました。
 フランスなどは都市の封鎖を行っています。
 それを以てフランスなどの対応は良い、それに比べ封鎖を行わず緊急事態宣言に留まる日本の対応は手緩いというような批判があります。
 しかし都市の封鎖をするにも、その前若しくはそれと同時に緊急事態宣言があります。
 緊急事態宣言と都市の封鎖は異次元のものではありません。ただ、日本は憲法が法的強制力のある封鎖などの非常事態行動を認めないという事情があるのでフランスなどのようなことはできないだけです。
 では憲法を改正すれば良いかというと必ずしもそうではなく、日本国憲法はいわば法治国家の基礎中の基礎なので、それを根本から変えるような憲法の改正は考えられません。
 この記事はそれについてのお話ではないので、それについてはこれだけの指摘にしておきます。

 この記事のお話は「外出の禁止」は日本にしかない独特なものだということです。

 そう言うと「え?」、フランスの封鎖は外出を禁止しているではないか、逆に日本は「禁止」とは云わず「外出の自粛」に留まっていて手緩いしそもそも「自粛」というのが訳わかめなものだという方が少なくないようです。
 そう思う方は西洋の文化をわかめや海苔の色の着いた色眼鏡で見てしまっています。
 私の今晩の食事には生わかめのみそ汁がありますし、わかめや海苔が悪いというのではありません。わかめはみそ汁に入れれば仮にCOVID-19が着いていても殺菌されるということで生ものだけれど買ってみた訳です。

 「外出の禁止」という言葉にどうも違和感がある。
 日本の報道媒体がフランスなどの諸外国が「外出の禁止」を含む都市の封鎖を行っていると云っており、日本もそうするべしだと云う方々がおられますが、おいおい、ちょっと待てという感じ。その「ちょっと待て」がちょっとだけ待てばよいということではないことは言うまでもありません。

 まず、都市などの地域の封鎖は日本の憲法ではできません。憲法は往来や移動の自由を保障するので、封鎖はその自由の侵害になります。また、往来や移動を伴っての労働は財産の形成に資するものなので――それが可能な賃金の水準ではないという指摘もありますが、労働ができないとなると尚更です。――、それらだけのではなく財産権の侵害にもなり得ます。故にも日本政府が国民に求めることができるのは封鎖ではなく「外出の自粛」なのです。
 封鎖を行えるフランスなどの憲法はその解除を議会が決めることができると規定されており、政府による封鎖の発動が政府の任意のみにより維持することができる訳ではありません。つまり基本としては封鎖というようなことをすることは認めがたいものだという前提があります。

 「外出の禁止」――何かおかしいと思い、英語の辞書を引いて見たら、'a curfew'と。
 私の専攻であるフランス語は'un couvre-feu'。

 いずれも、「外出、to go out, aller dehors」も「禁止、prohibit, interdire」もなく、一つの'a curfew'や'un couvre-feu'という語、即ち、何らかの一つの状態を表す一語だということです。

 その一つの状態とは辞書にもあるように、「晩鐘を鳴らす」ということ。
 晩鐘とは教会の聖堂にある鐘が夜になると鳴らされるもので、それを受けて人々は家路に就く。日本なら寺の鐘が鳴るようなもので――実在。――、寺がなくて神社しかない地域なら烏の鳴声。「烏何故鳴くの?――烏の勝手でしょ。」。

 何で夜になると鐘を鳴らすのかというと、夜は危ないからです。
 「夜は危ない。」、いかにも当たり前過ぎることと思うものですが、何で危ないかということは旧約聖書に記されています。
 旧約聖書のどれのどの箇所かは忘れましたが、人間以外の生物の多くは夜に活動するということが記されています。それは彼らの信仰の対象としての聖書の言葉であるだけではなく科学的事実でもあります。
 人間以外の生物には、その全てではないものの、人間とは敵対する生物もいます。なので人間は夜には彼らによる難を避けて家に帰るべきだというのです。そのために夜毎に鐘を以て知らせる。
 文明の発達と変化と共に、人間に敵対する生物は人間以外だけではなく人間の一部も含まれるようになって来ており、それが『変なおじさん』です。
 ただ、夜に活動する生物と昼に活動する人間、それらが昼と夜というそれぞれの「島」を守っておれば敵対的ではなく互いに補完し合う関係になるのだろうと思います。島を侵す/侵されるので敵対せざるを得ない。

 フランス語の'un couvre-feu'という語はそのまま英語に置換えると'a cover-fire'で、火を覆うということだと分かります。何で覆うのかというと、難燃性または不燃性の敷布や水。
 日本語はしばしば「水を掛ける」と言いますが、少なくとも火を消すための水は「水を掛ける」ではなく「水で覆う」。料理のたれ(sources)なんかも「たれを掛ける」ではなく「たれで覆う」が適切です。今の日本人は何でも「掛ける」や「やる」などと言うので政策もその語感の通りに中途半端(ええ加減)になるのです。
 火を布や水で覆うと、一時的に火がそれらの隙間を漏出して拡がることがあります。ならば覆わないのがよいかというとそうではなく、そのリスクを受けてでも覆って消さないとなりません。
 その漏出しによる拡がりを避けるためにも、人々が火の周に近づかないようにその場を離れることを要求する必要があり、そのために鐘を鳴らして警戒を告げることが消防車の鐘の起源です。中国語はそれを「丁寧」と言います。

 その場を離れるだけではなく、なるべく家に帰ること、火事のような局地現象より大きいウィルスの流行のようなことならばそういう判断になります。そこであくまでも「なるべく」なのは家に居れば安全とは限らないからで、それは大東亜戦争における空襲を経験した人なら分かるでしょう――私は祖母の話に伝え聞くだけです。――。

 「なるべく家に帰って下さい。しかし家が安全とは限りません。」、それがこのCOVID-19におけるフランスなどの封鎖の政策の伝統的肝です。

 処がどうでしょう?
 日本もフランスなどのように封鎖を実行すべしだという方々は「外出しないで下さい。家に居れば安全です。」と云っているようです。
 「家に帰る、to go back home」と「外出しない、not to go out」、ベクトルが全く逆です。
 フランス政府は外出しないで下さいと云っているのではありません、とりあえず家に帰っていて下さいと云っているのです。

 日本政府は「外出の自粛」を求めています。
 外出の禁止をしてはいません。
 しばしば日本的で不可解とされる「自粛」という言葉ですが、西洋には外出の禁止というものはあり得ないので、むしろ「外出の自粛」は外出の禁止より西洋の考え方に近いといえます。「禁じないけれど、なるべく。」な訳で。
 故に、日本政府の今般の策は充分とはいえないかもしれないが日本の憲法に基づきできる限りでは妥当なものなのです。

 何で'a curfew, un couvre-feu'と「外出の禁止」のような全く逆の観念になるのでしょうか?

 それは近代日本社会の観念が「家に居ること」を既定(the default)の状態としているからではないかと思われます。
 西洋社会は前近代も近代も一貫して「外にいること」を既定(the default)の状態としています。
 民主主義とは民衆が外にいることにより成り立ちます。議会は家ではありません――'House'とは「家」ではなく「院」ということで、まずは'house'を家のことと取り違えたことが近代日本の誤りです。「院、house」とは「それ専用の場所」ということで、故に業主婦を'a housewife'と言うのです。「家に居る主婦」ということではありません。――。
 日本も前近代の社会は西洋社会と同じくそのような観念でしたが明治以降の近代化における色々な勘違いによりおかしなことになっている訳です。西洋語の訳が全然訳になっていないなどもその一つの表れ。
 少しややこしいことを云うと、そもそもは「家」も家、うちという意味ではありません。「国家」という語が示すように、「家」とは契約に基づく主体ということで、「家に帰る。」は「いえに帰る。」ではなく「うちに帰る。」が厳密には正しい読み方です。家族とは契約に基づく主体ではありません――そうだと思う方々が跡を絶たないようですが、――。

 人間は外にいることが基本で夜だけ家に帰って難を逃れる、それが西洋社会の――前近代は日本社会も、――基本形で、故に、日本のいわゆるベッドタウンというものをただ寝に行くだけの町などといって否定的に見る人は逆に彼が日本にしかない独特の観念なのです。西洋の町はどこもベッドタウンです。世界のどこも、家とは簡単にいえば「寝に行くだけ」の所です。しかし寝ることは人間にとって必須で重要なことであり、それを保障しないことは良いことではありません。

 いつもいるべき外の町が火事やウィルスで危ないことになったらそこにはいられない訳で、しばらくは家にいて下さいということになる訳です。

 近代の日本社会は逆に家に居ることが基本だという観念で作られて来ています。
 それが何でそうなったのか?――多分、明治時代の文明開化の時に国がまだ国民の労働の場を分配して与えることが出来てはいない内に社会が設計されたからでしょう。労働所得について未定の状態ではそれが定まるまでは人々が家で待機するしかなく、そしていつの間にかそれが普通の状態になったので、日本は当時から今も「引きこもり」や「オタク」が基本の状態であり続けているのです。それが心理的にだけではなく諸々の制度にも反映されてしまっています。故に「外出の禁止」という日本以外にはあり得ない観念がこのCOVID-19の流行の折にも出て来るのです。

 政府が非常事態宣言を出しました。
 それが手緩い、西洋諸国並の封鎖をすべしだという声があります。
 しかしどうでしょう?
 もし日本がここからずるずると封鎖や経済活動の大幅の制限を実行するようになったとして、日本がそうしている内に今封鎖をしているフランスなどがしれっと封鎖を解除して経済活動を漸次にも再開したら、日本は大恥です。恥をかくだけではなく経済において大きく水を空けられることになるでしょう。

 禁止ではなく自粛、封鎖ではなく宣言、不織布ではなく布のマスク――日本にしかないおかしな政策だという方々こそが日本にしかないおかしな観念だということが以上から分かるかと思います。
 政府による休業補償をということについては、封鎖であれ自粛であれ、政府が経済活動という財産の形成を妨げることになることからそれへの補償が必要だということには一理も二理もあります。しかしこの折に外に出て働くことが悪いことであるかのような批判はいかがなものか。補償というといかにも「損した分だけを埋める」という感じがしてしまいますが、もしそれが行われるなら、外に出ることが社会の前提である以上はそれだけではなく「得をすることができるための助成」、即ちinsentivesと捉えるべきではないかと思います。

 近代の日本は外に出て働くことをも「家に居る」という既定の状態を作り出すための手段としか捉えなくなってしまっているようです。そういう観念が「稼ぐ/稼げない」とか「人に使う/使われる」などというそれらもまた近代の日本にしかない独特の観念になっているのでしょう。

 火を覆って消すように、ウィルスもマスクで覆って消す。
 マスクの意義についても、同じようにマスクをしているようでも、捉え方が全く逆になっているかもしれません。
 ウィルスも「外に出さない」ではなく「内側で消す」のです。そのための補助品がマスクです。

#COVID19 #非常事態宣言

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