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共同体の現在と未来:日本の三大思想:スピノザ・プラグマティズム・道教 その5

 この記事の主題の共同体のこととは直接の関係はないのですが、直前の記事『その4』にケネディについてちょろっと言及しました。
 アメリカは1920〜’50年代、第二次世界大戦の前後の時代にプラグマティズムが普及しましたがケネディの時代からそれががらりと変わり、アメリカにおけるプラグマティズムは廃れました。
 しかし、日本はその同時代から今の百年に亘りプラグマティズムが順調に普及しており、今の日本は世界一のプラグマティズム大国になっています。
 そんなプラグマティズム百周年の最近に、安倍が暗殺されるという痛恨の事件がありました。

 ケネディや安倍の政策や政治信念の善し悪しはさておき、それらの暗殺には結構に顕著な特徴の違いがあります。
 時代の流れの観点では、ケネディの登場はアメリカが豊かだが愚かな時代でした。ケネディはそれをchangeし、豊かで賢い時代を作ろうとしました。
 安倍の登場は日本が貧しくしかも愚かな時代でした。
 絶対値としては未だそれなりに豊かでも貧しくなってゆく傾向にあり、そして安倍の時代が過ぎたその十年後の今は更に貧しくなっています。また、愚かさも当時よりも更に益々絶好調です。
 暗殺という現象そのものには何らかの同じ点があるにしても、それがどんな情況でどんな思想により起こされたかは何となく明らかに違う。

 やや雑な捉え方ですが、ケネディを殺す側の論理は「豊かなら賢くなくていい。その何が悪い?」というもの。
 安倍を殺す側の論理は「豊かじゃなければ賢くない。」というもの。
 「安倍は結局は日本を豊かにしなかった。自分やこの国が愚かなのは安倍のせいだ。」
 豊かにならないことは安倍のせいかもしれませんが愚かなのは安倍のせいではありません。
 最近に安倍の政策についての掌返しが大手マスコミにも見受けられるほどに逸っていますがどうもそれは暗殺者の論理に基づいていると見えます。世間が自国の指導者の暗殺者に十万いいねを押している。

 でまあ、ケネディの暗殺からアメリカはベトナム戦争に邁進しましたが、安倍の暗殺から日本が何らかの戦争になったり巻き込まれたりすることはないでしょう。
 寧ろ当時のアメリカとは逆コースで、アイクちゃんの時代のように豊かで愚かな時代になってしまう懸念が強いです。新しい第二次世界大戦はあくまでも脳内でしか起こりません。
 つまり、…あれ何だっけ?今思ったことを忘れちゃった。
 あ、そうだ。少なくとも経済の一応の回復はあるということ。
 しかしそれが安定成長の継続になるかどうかは怪しい。
 而して異次元の金融緩和も真青のごろごろ注射針のスパイス経済になる。
 「お宅の会社ファイザー?うちの会社はモデルナ、」というような社会風景になる。

▶️逆コースとは

 日本の三大思想の二つであるスピノザ哲学とプラグマティズム、
 それらは似ても似つかない程に異質ですが或る同じ点があります。
 それはそれらは共同体を生み出さないが既成の共同体の維持には強いこと。
 新しい現実を生まない。
 しかし既成の現実を維持する力は強い。
 なら、共同体を生み出す力は何かというと、それは利益とその構造の構築、即ち現地現物の共有です。
 その意味では、GemeinschaftもGesellschaftも同じです。
 それらの違いは前者が変更の可能性の低い利益構造であり後者が変更の可能性の高い利益構造であることだけです。
 可能性は結果に結びつくとは限らないのでその可能性が結果になる動きがない限りはどちらも同じ。
 故に根本的には田舎と都会の違いはない、あってもそれは量的差異に過ぎず、都会に行きたいとか田舎に行きたいとかいうことには本質的意味の違いはない
 寧ろ実際には田舎ほど自由で寛容なことが多いことは歴史的傾向です。
 日本人の好きらしい田舎は村社会だから不自由で不寛容だという論は固有の実例としてはそのような場合もあるにしても一般論としては空理空論です。
 田舎だろうと都会だろうと、何らかの利益構造を共有するものだということは人類史の基本中の基本です。

 現代は共同体の崩壊といわれますが実態は共同体そのものが崩壊しているのではなく、利益ではないものを利益と思っている貧しく且つ愚かな共同体が増えているだけなのです。
 豊かさと貧しさ、賢さと愚かさ:如何なる様相であれ共同体が共同体であることは永久に不滅なのであります。

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