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noteを始めると見えて来た、ネットの個人媒体(personal media)のそれぞれの違い。

 noteを始めて三日目になります。

 私は自分が加わっているものについては何でもとりあえず持ち上げておく習慣があり、noteについても早速や持ち上げます。

 SNSという語が今は広く知られています。social networking serviceの略ですが、実はSNSという語はほぼ日本にしかないものだそうで、世界の多くはSM, social mediaと呼ぶ。

 やはり何でしょうか?日本人は同音異義語に敏感なので'SM'と聞くと'sadism and masochism'を連想したりするからでしょうか?しかしそちらのアクセントは「エ↗スエム」、social mediaのアクセントは「エ↗スエ↘ム」にしたら誤解がないのではないかと思います。私は大学生の頃はアナウンス部にいたのでアクセントやイントネーションについては細かいです。

 話が逸れるのも私の習慣で、それがnoteという媒体では吉となるか凶となるかは分かりませんが、西洋語――フランス文学科の卒です。――は同音異義語が日本語と比べとても多い。同じ綴字で同じ発音の語に色々な語義があるということで、遣われる語がどの意味なのかは文脈から判断しないといけません。

 SNSという語がいつしか専ら「渋谷ニュースサイト」の略になっているかもしれません。

 そういえばnoteには受信料がありますね。私は今の処は受信料を徴収しないことにしており、この記事も無料で終りまでお読みいただけます。別にそうあるべきだとかそれが偉いと思ってしているのではなく、当面の方針です。

三日で分かった、noteの特色

 noteを特徴づけるものとしてまず気づくことはUIを全く選べないことです。

 UIとはuser interface:文書や機械装置、器具備品など、人の使うあらゆる道具の操作する部分のことです。インターネットならブラウザーの操作の設計がそうですし、そこに表示される頁の文書にもUIがあります。ネットに詳しい方はブラウザーなどのアプリケーションのUIに関心のある方が多いでしょうが、内容、contentsにもUIがあるということにはあまり関心がないか思いもつかない方も少なくないのではないでしょうか。

 ネットは視聴者が自らクリックなどの操作を要するのでcontentsのUIはとても重要です。新聞、ラジオやテレビなどの旧来の組織媒体は観るだけや聴くだけで操作を要しない、即ち手と口を遣わない媒体なのでcontentsのUIという観念が少なくとも視聴者にはあまりありません。送り手にはそれがあるのでしょうが、UIが調えられていないネットのcontentsは多分に旧来の組織媒体を視聴する感覚と変わらずにネット媒体を設計しているのではないかと考えられます。「愉しく盛り上がれば良いではないか。」――しかし送り手だけが盛り上がっていても視聴者は愉しめません。

 後述のツイッターなどにおける昨今にしばしば指摘されている問題、例えば憎悪や分断というのも、その「送り手だけが盛り上がる」ということに尽きるのではないかと思います。そういえばテレビは選挙特番などにツイッターを流すなど、ツイッターが大好きなようですね。

 私もツイッターという媒体は便利で可能性のあるものだと思います。必ずしもそのような悪い面だけではないでしょう。

 noteのUIは全員が白地に黒字と所々にエメラルドという三色だけで表現活動をするようになっています。文字に色を着けたり印線(marker lines)を付けたりすることはできません。但し太字にすることはできます。

 私はそれがとても気に入っています。「気に入る」というと偉そうと感じるなら、私好みです。

 何でかというと、私は本を読む際に線を引いたり書込をしたりすることを絶対にしないからです。

 書いてあることだけを書いてある通りに隅々までなるべく満遍なく読む。そういう姿勢で読むと、線引や書込をする暇なんてないし、そもそも本が汚れてしまいます。なので私はブックオフなどの古本屋でも線引や書込のある本はどんなに好きな著者の素晴らしい本でも絶対に買いません。もしその確認洩れがあってそのような本を間違って買ったら読んでいる途中でも捨てます。

 自製のウェブサイトやブログは、文字に色が着いていたり印線が付いているものもよくあります。それは受け手が書込むものではなく送り手が予めそのようにして世に出しているものであり有用な場合もありますが、私はなるべく黒の文字と鮮やかな(?)画像だけで表現したいです。

 また、noteは表示の書体もsystem fontに固定されているようで、自分のブラウザーの指定フォント――私はGoogleの標準のNoto Sans。――では表示されません――ツイッターは標準仕様は各自のブラウザーの指定フォントでTweetDeckはsystem font。――。noteが始まったのは2014年で既にWindows7が出ており、Windowsのsystem fontがメイリオに代わって主流になっている時代。もしnoteがWindowsXP以前に始まっていたら全然やる気がしなかったでしょう。

 さて、そのようにnoteがUIを選べないことはその参加者の参加の機会の徹底的平等を意味します。

 意図してそうなったのかどうかは分かりませんが、いずれにせよそれがnoteの魅力になっています。

 勿論、結果は平等ではありません。結果はそれぞれの参加者の力に由ります。

 2000年代に当時は主流だった様々な自製のウェブサイトを見ていて感じたのは機会が平等ではないだろうということです。

 まずはウェブサイトを作ることに要する知識や能力の差があります。

 今はない私の自製のウェブサイトは2000年代はIBMのホームページビルダーで、2010年代はマイクロソフトのSharePointDesigner2007で作りましたが、玄人から見れば全然低水準なそれらをもずぶの素人が使えるようになるにはなかなか障碍が高いです。それらを使って作る私のサイトは年収に喩えると今はそれもなかなか難しいといわれる400万円代という感じ――喩の次元だけでは富裕な私…、「歩くメタファー」とでもいうのでしょうか?――。

 そして、機会が平等ではない割にはやがては結果が平等に貧しくなって行ったのが自製のウェブサイトという媒体。

 何でだろうというと、多分、面倒くさいことは嫌なのです。自己表現のために、まずはその場を骨格から造る過程を踏むなんて庶民の感覚では考えられない。

 自製のウェブサイトより格段に簡単で手軽になったブログも、それをすら面倒くさくてやっておれないと思う人が増えるようになっています。ただ、ブログの性質はそういうことよりももっと大きな点があります。

 それは自製のウェブサイトにせよ、ブログにせよ、視聴者に「来てもらう」ことが基本の構造であることです。

 基本としては、それらは送り手が自らどぶ板を踏み売り込むものではありません。

 作るだけで労力を費やすので売り込みにまではなかなか労力を遣えません。

 なのであからさまに殿様商売のサイトやブログもしばしば見受けられます。売れている殿様商売もあり、売れない殿様商売もある。デヴィ夫人は前者でしょう。

 しかし自製のウェブサイトやブログが2000年代に普及した現実の背景を考えると、実はそれらが今はFacebookの本領となっている縁故主義であることに気づきます。

 2000年代の上手い自製のウェブサイトを見ると、そのnetworkingが私的人間関係を主として出来ていることが分かります。「サイト作ったの、見て!」という感じです。実はそのような'00年代の上手いサイトが発展して組織化されて出来たのがFacebookで、十年前のようにプラットフォームを自らの手で造ることを要しないので「おゝ、何と便利な!」ということで広まったのだろうと考えられます。逆に、それが悲運ですが、下手なサイトが流れて行ったのがツイッターです。尤もツイッターは彼らの他にも莫大な数と性質の人々に広く支持されていますが、いわゆるマウンティングやヘイトを日常茶飯とする型のツイッターの利用者は'00年代の下手なサイトの送り手が多いと考えられます。

 縁故主義なら見る人は自分にとって大切な人々なので、見せる内容も自ずと良いもの、客観的に見ても良いと感じられるものになります。なので上手いサイトになる訳です。

 縁故主義も大切なものですが、世の中は縁故だけではありません。

 縁故主義ではない次元における最も高い可能性のある媒体、それがnoteだろうと思います。

 全ての参加者が同じUIの下に、平等な機会で表現をする。

 勿論、物理的にはブログだろうとnoteだろうとFacebookだろうと、そこに入線するためには自ら足を運ぶことはありません。精々パソコンとインターネットの一式を買いに行ったりスマートフォンを買いに行ったりするだけです。

 しかしnoteを利用する感覚は物理的には足を運ばなくても、心理的にはnoteという公共の場に足を運び自分の表現を発表しに行くという感じです。それがブログやツイッターにはない感覚なのではないでしょうか。

 体は楽をしても、せめて心は面倒くささを厭わない。延いては体の労力も遣うようになって下さいという暗黙の考え方がnoteにはあるように思います。公共性です。

ツイッターの社会構造

 ツイッターもUIの選択の余地は少ないですが、noteとは違い背景色や主題色を選べるようになっています。大きな違いはツイッターが140字の制限でnoteは字数の制限がないことです。

 もう一つの大きな違いがあります。

 それはツイッターは世界とつながることです。

 noteは世界とつながりません。

 noteと類似の媒体は諸外国にもありますが、noteそのものは日本企業による日本国内のみのお仕事です。日本企業による大手の個人向のネット媒体はnoteがネット史上初めてです。

 但しインターネットは世界中で利用が可能なので、外国に住む外人もnoteの利用は可能です。しかし基本としては日本に住む日本人が主な対象です。いわば諸外国の類似の媒体を含め、この形式の媒体は統一的(universal)ではなく現地現物主義で成り立っているといえます。

 このことは「世界とつながる」ことにおいて生じ得る問題、いわば背反について思いを致させるものがあると思います。

 ツイッターを通して加速された「世界とのつながり」は、結局は自分と同じ性質の人々だけを世界中に鵜の目鷹の目で見つけて閉じた世界を形成することも多いということを現しています。

 そのような閉鎖世界や同質性社会を必ずしも否定するものではありませんが、その閉鎖性や同質性の称揚がマウンティングやヘイトを誘発するとなるといかがなものかと思わざるを得ません。

 広くなったら、逆に狭くなる。――私が若い頃から思い続けている一つの命題です。

 自製のウェブサイトが「自分の居場所に来てもらう」媒体であり、Facebookが「大切な人に会いに行く」媒体であり、noteが「皆と同じ条件で出向く」媒体であるなら、ツイッターは「歩きながら投げ掛ける」媒体だといえるかと思います、良い意味でも悪い意味でも。

 どちらの意味でなのかは謎ですが、トランプ大統領はそのように「歩きながら投げ掛ける」ことの分かり易い典型です。アメリカ史上に数少ない、移動型の大統領(the mobile President)。

 投げ掛けることには制球を要するので、制球の悪い利用者は「いかにも」になりますし、制球の良い利用者は上手い利用者です。塵紙を丸めてごみ箱に投げるようなものです。

 そのような粗ぽ(rough)い形式は、それぞれの力量や心性の違いが最もあからさまに出ます。noteにはそのようなリスクはあまりありません、そもそも自分が心の足を運ぼうとしている、投げて渡すようなことはあまりない。ツイッターの創始者はカウボーイなのではないかと思います。

 2010年代は紛れもなくツイッターの時代でした。いわば、カウボーイ的形式が理想とされた時代です。でも日本人にはそんな真似はほとんど出来ませんでした。

 2020年代は「令和」の名にも相応しく、自分のしたいことは自分がきちんと足を運んでする時代になるのではないでしょうか。

#2020年代の未来予想図   

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