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【キリスト教】聖週間 聖木曜日 主の晩餐の夕べのミサ

 今年は2012年以来の11年振りに復活祭と灌仏会(花祭)が重なる金環日食のような年です。
 2012年は5月に金環日食もありました。
 復活祭とはキリスト教の祖イエスの死と復活を記念する祭で、灌仏会とは仏教の祖釈迦の誕生を記念する祭です。
 復活祭が始めて行われた年は不明ですが概ね二千年前で、そろそろ名球会入りが見えて来ています。

 復活祭までの四十日は四旬節または大斎節などと、一週間は聖週間と呼ばれ、イエスの十字架における受難(処刑)、復活、イスラエルの回復とキリスト教会の創立が追憶されます。
 イエスの当時の当面の眼目(goals)はイスラエルの回復で、聖週間に朗読される聖書もその主題に副う箇所が定められます。故に、キリスト者ではない方々としてもキリスト教の知識を得ることに最も適する切口はイスラエルの回復という歴史です。
 聖木曜日に祝われるイエスの晩餐はキリスト教が二千年に亘りほぼ年中無休で受け継ぐパンと葡萄酒による祭儀ですがそこにキリスト教の信仰だけではなく国家主権や国民の生活についての深い示唆も読み取ることができます。

 聖木曜日にはまた洗足式という年に一度の徴の儀式も行われます。
 これはイエスが弟子達の足を晩餐の前に洗うという一時に倣い、司祭が信徒代表達の足を洗うものです。
 イエスの弟子達は12人でしたが洗足式の信徒代表達は一般に7人が理想とされます。それはイスラエルの父祖アブラハムの子供が7人だったことに因むと考えられますが、きょう私の参列したミサ聖祭では5人でした。
 因みにアブラハムが子のイサクを献げたという旧約聖書の創世記の話はしばしば試練がどうのという誤解がされていますがその話は当時のイスラエルの窮乏により間引きをせざるを得ないのではないかという情況で下々の人々が実際に間引きの用意をしている処を、お上のアブラハムだけがその難を免れる訳にはゆかないということで彼もまた下々と同じくイサクを間引くことにした、しかし、神(の御心に忠実な或る者)が一念発起、その必要はない、イスラエルの皆は決して間引きをすることはなく生まれた命を洩れなく育てろ、それが子供を神に献げるということだと命じたという話です。
 一番偉いのはアブラハムなのにその彼にさえ絶対に命令を下すことのできる人がいることは当時には既にイスラエルの社会に組み込まれていた制度で、いわば衆議院議長が内閣総理大臣に命令をするとかトヨタ労働組合の議長には社長や会長も逆らえないというようなものです。
 実際には、そのような者が主として神の言葉をイスラエルに伝えていました。なので誰かが神の言葉を聞いたとあればそれは彼の言葉を聞いたということと考えれば大体は間違いありません。
 尤も、間引きをやめて子供を洩れなく育てることに決められた背景には窮乏の解決があり、それがイエスの晩餐のパンと葡萄酒にも象徴される食糧の問題です。窮乏の解決とは政治です。
 イエスもまた宗教家たる前に政治家でした。

 洗足式の重要な点はその最大の意義が足を洗われることよりも足を洗うことにあることです。
 つまりその儀式のそこでの主役は信徒代表達ではなく司祭。
 聖木曜日の朝(一部の地域は前水曜日の朝。)は聖香油式という司祭達の集う儀式があり、司祭職の契約の更新日とされます。
 これはマグダラのマリアがイエスの足に香油を塗るという話と照応します。
 仕えられるためではなく仕えるためにということです。

 尤も、今時の諸国の指導者等は良かれ悪かれ仕えられるためになったという者は一人もいないでしょう。なので仕えれば必ずしも良いというものでもないのでしょう。故に今日的には仕えられるためではなく仕えるためにということは下々の人々にこそ重要な事柄かと思われます。モテなかったり金がなかったりで誰も仕えてくれそうにもないということで仕えられることばかりを望むようになるということはありがちで根深い問題です。

 その祭の様子はsensitiveな内容を含むのでお見せすることができませんが後の祭りの撮影がこちら:

聖卓の敷布を翌聖土曜日までの間は撤去する。
撤去が完了。廃墟ぽい趣。
イエスの墓を象る聖櫃が空になり通常は安置される聖体が
別所(小聖堂など。)に移動される。
受難に向かうという意味が主だが同時に、
既に復活しているということでもある。
箱天。
厳密には中が空の時には赤の聖体燈は消すことになっているが
忘れているか聖堂の施錠連動式なのか。
小聖堂。
主聖堂の傍にある。
離れて視ると聖卓が柩みたく見える。
小聖堂の聖櫃。聖体がここに聖土曜日まで安置される。
晩餐ということで、きょうの夕餉は久々に米をステンレス鍋で炊き。
炊けてます。
主菜はいなだの刺身。
キリストの血を象り、白麹みそと豆みその合せ。
二杯目以降はイエスの芥子種の譬話に因み赤唐芥子の種だけを入れ。
唐芥子の中も聖櫃の中のように空っぽ。

 主の晩餐の夕べのミサに朗読される旧約聖書は出エジプト記ですが:

 主はエジプトの地でモーセとアロンに言われた。
「この月はあなたがたの第一の月であり、一年の最初の月である。イスラエルの全会衆に告げなさい:この月の十日に、父祖の家ごとに、すなわち家族ごとにそれぞれ自分たちのために小羊一匹を用意しなさい。もし家族が小さくて小羊一匹に見合わないなら、隣の家族と共に人数に合わせてそれぞれ食べる量に見合う小羊を選びなさい。あなたがたの小羊は欠陥のない一歳の雄の小羊でなければならず、羊かやぎの中から一匹を選ばなければならない。あなたはそれをこの月の十四日まで取り分けておき、夕暮れにイスラエルの会衆は皆集まってそれを屠る。そしてその血を取って小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。その夜のうちに肉を火で焼き、種なしパンに苦菜を添えて食べる。それを生のまままたは水で煮て食べてはならない。火で焼いて頭も足も内臓も食べなければならない。それを翌朝まで残してはならない。朝まで残ったものは火で焼き尽くさなければならない。それを食べるときは、腰に帯を締め、足にサンダルを履き、手に杖を持って急いで食べなさい。これが主の過越である。その夜、私はエジプトの地を行き巡り、人や家畜に至るまでエジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。私は主である。あなたがたがいる家の血はあなたがたのしるしとなる。私はその血を見てあなたがたのいる所を過ぎ越す。こうしてエジプトの地を私が打つとき、滅ぼす者の災いはあなたがたには及ばない。この日はあなたがたの記念となる。あなたがたはこれを主の祭りとして祝い、とこしえの掟として代々にわたって祝いなさい。」

 :急いで食べるというのが面白いですね。
 普段もなるべくゆっくりと食べることが良いとされますし大事な祭なら尚更と思うかもしれませんが祭の時は早く食べるべきという。
 実際の問題としては、焼けば煙が立つので敵地エジプト人が警戒する虞があります。なるべく警戒を誘わないように、されたら直ぐに逃げられるように、早く片づけるという訳でしょうか。
 やや勘繰れば、それらの指示はかなり無茶振りぽく、実はしなくてもよいということにも取れます。するとアブラハムとイサクの話やイエスが焼き尽くす献物というものを批判したことともつながって解せます。
 しなくてもよいということはしても良いということでありしてはならないということではありませんが、それはちょっと無理ぽいので代わりの案はないかと神に願い出ても良い、寧ろそういう神との対話が大切なのでしょう。

 朝餉はこれ:

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