『形而上学』について

この書籍は『ta meta ta physika』で直訳では『自然的なものどものつぎのものども』でありむしろひねらずに直訳してもらった方が素直で分かり易かったのではと
内容としては以前の自然哲学に於ける不完全さの追求である
アリストテレスという人は至極厳密に言語を選択する人物なのだろうことは書籍を見れば明らかである
しかしそれゆえにそれ以前の思想の曖昧さが納得出来ず『形而上学』以前と以後に於いての思考的分断を生んでいるように思われる
なぜなら曖昧さとはむしろ厚みと考えなくてはならず単純な説明不足や前近代的なものとして解釈してしまう事は迂闊と言わざるを得ない
確かにかっこいいのではあるがこれ以降はきっと厳密な言語で単語を規定しながらより多くの言語を消費してごく僅かな事を説明する様な時代が訪れるのだろう
何故私がこの事に不服を感ずるのかと言えば例えば仏教の偈頌や俳句や詩のように短い言葉で多くを表すことの方が優れている様に思うためである
奇妙な事に言葉が少なく曖昧な方が内包する情報は多いのである
まるでレコードとCDの様である
フィシスの世界に於いて私は自然と同一であったはずが同じ自然と表現されるネイチャーに於いて私は自然と対立する立場となってしまった
そして現代を生きる私たちであれば実感を伴って知っていると思うがネイチャーなんてものは単なる欺瞞でしかなかったのである
結局この本は喋りすぎだという事になる
喋れば喋っただけ厚みが失われて厳密になればなっただけ示される内容は僅かなものとなってしまう
労多くして功少なしである
多分言語とは厳密に話せば僅かな事しか示さず曖昧なもの言いになれば抽象的になってしまうという事なのでありそれが限界なのであろう
結局人の持つ感覚を無視する以上この問題を超えることはできず言語以外の方法を見失ってしまった現代人は言語の海で入水自○をする他ないのである
最近はAIがものすごく発達したが実は彼らは既に言語と観念について止揚した立場にいると言える
そしてAIを扱うという立場である以上人類はAIに着いて行きさえすれば良いというものではない事は何となく直感できるのではないだろうか
現代の数多の知識を持った上でフィシス的世界に還る事が出来れば晴れて観念と実在の対立は止揚した事になるしそれを目標とした活動も既に有る
『について』というタイトルを付けたにも関わらずあまり本論について語らなかったがきっとより多くの言語を消費する事は免れ得ないだろうし今回はこの様な感じでお茶を濁す

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