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【読んだ】『四畳半神話大系』

『四畳半神話大系』森見登美彦、角川文庫 単行本は2005年発表

(アパートメントのインターネット事情だったり、私の多忙だったりでしばらく、1回限りのまま読書記録の更新が止まっていましたが、再開します。さて、)

やほ。また本を読みました。

この本、「ふふふん、この課題本、大学生の時に読んだことあるし、たぶん我がアパートの本棚にあるはずなんだよな…ふふふん(鼻歌)」と思って探したにも関わらず、結局見つからずじまいであった。『太陽の塔』とか『ペンギン・ハイウェイ』とかはあったのだけど。

そこでよくよく記憶を探ってみたら、確か友達から貸してもらった…ような気がする。(覚えてない。気がするだけ)

僕は寂しがりやなので、大学のころは友人の家によく入り浸っていたのですが、その彼が住んでいた寮に、カメのような顔をした、めちゃめちゃ読書家の人がいた。6畳の部屋の四辺がすべて背の高い本棚で覆われ(一応、扉の前は出入りができるように整理されていたけど)、テレビの前にもDVDがうずたかく積まれ、押し入れの中に服はなく、代わりに画集が詰め込まれていた。そこで読んだ…ような気がする。(大学の学生寮にはそういう人が何人かいた)

さて、
この小説には4人の〈私〉が出てきて、それぞれ波乱万丈の大学生活を送っている。本人たちは認めがらないのだけど、波乱万丈だと思う。いいじゃないか、十分青春ではないか。僕だって茄子に髭が生えたような顔の8回生に猫ラーメンで遭遇したいですってば。

4人の主人公たちは皆、それぞれの別の〈私〉の変奏であり、読者にはそれが「新歓でどのポスターを選んだのか」という明解な方式で提示される。興味深いのはそのすべての世界線上で〈私〉は小津(a.k.a Oz)と出会い、明石さんと結ばれる。そしてもちろん、城ヶ崎先輩、樋口先輩、羽貫さんという愉快な仲間たちもいる。(個人的にはp.168-9の羽貫さんが非常に愛おしく、そしてその吐しゃ物が非常に美しく描かれる様子に強く惹かれるのですが、それはまたの機会に)

最初にこれを読んだとき、最終話の主人公と同じように、自分のアパート及び他人のアパートに引きこもりがちであった僕は、〈私〉が四畳半世界を1周しながら孤独と闘い、「夜中にふと思い立って猫ラーメンを喰いに行ける世界。/これを極楽という」(p.358)との考えに至るのを追いかけながら、「俺はもっと書を捨てて猫ラーメンを喰いに出なければいけないのではないか?世界はもっと無限大に広いのでないか?」と自問したものであった。

しかしあらためて読んでみると、四畳半世界を1周できるということはつまり、四畳半世界は閉じた円環であり、有限であることに気づく。明石さんと結ばれるのは喜ばしいことであるのだが、しかし、小日向さんと結ばれるエンドはないようである。「もしあのとき、ほかの道を選んでいれば私は別の学生生活を送っていただろう。/しかしながらあの無限に続く四畳半世界を八十日間歩いてみた印象から推察するに、私はいずれの道を選んでも大して代わり映えのない二年間を送っていたのではないかとも思われる」(p.394)と〈私〉も言っている。まるでニーチェの思想みたいである…「永劫回帰」というあれ。貴方はどう転んできっと大丈夫だ、花の大学生活、ええ感じの湯加減でアホをしながら楽しみなさい、といった様子である。読んだあと、「楽しき哉、人生。正直パッとしないかもしれないけど、楽しいことも多いし、人生ってたぶんこんな感じだろうな。大丈夫」と自身の生を肯定できるような気がした。よき。

しかし、やはり僕は最初に読んだ時の感想をまた思い出してしまう。
主人公〈私〉に対して問うてしまう、…君はほんとにそれでいいのか。君は本当は小日向さんと結ばれたくはなかったのか?そんな、著者モリミ―(あるいは神)の手のひらで踊っているような大学生活でいいのか…と。

どうやら結局僕は、「自分から能動的に動いて、最高の上の超最高を掴み取る」ということに心底憧れているらしい。困ったものです。「ねぇ、足るを知りなさいよ。そんなんだと一生満足できないまま終わるわよ」というようなことも、自分に対して老婆心思う。

そんな風だったので、最終場面を僕は「〈私〉が能動的に何かを掴みに行く場面』だと受け取った。この、"I Love You"の日本語訳とも捉える事ができそうなこの掛け合いで、彼はこれまで小津に
「僕なりの愛ですわい」(p.96、他)
と言われるのを受動的に甘受していたのだが、はじめて自分から
「俺なりの愛だ」(p.397)
というのだ。

これからの〈私〉の事を応援したくなるような終わり方である。

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