レビュー畑でかきわけて
週末は2度映画館で映画を見る機会があった。
一作はシリーズものだが、前作をあまり面白いと思っておらず、一人だけであれば決して映画館まで足を運ばなかったであろう作品。もう一作はある人が絶賛していたので気になって見ようとしていた作品。
結論から言うと二作ともとても面白かった。
しかし、この二回の映画鑑賞において違う点が一つある。それは鑑賞前の気構えである。
特に期待もせず、事前情報が皆無に等しい状態で見た作品は鑑賞後の満足感があって、見て良かったとも思えた。素直に面白かったし「映画楽しかったネ‼️☺️でもずっと〇〇ちゃんの横顔に見惚れてたからあまり内容覚えてないかも😅💦ナンチャッテ😏👍また一緒にオジサンと見てくれるカナ⁉️😭😭」なんてフィルマークスに書くことも出来る。
一方、あの人も言っていたしきっと面白いに違いないと、人の太鼓判を頼りに見た映画は、もちろんとても面白かったのだが、それ以上に本当に僕自身で100%楽しみ、僕自身だけの頭で深く作品と向き合えたのか、というわだかまりが正直残る。
もし、この作品の感想を誰かに話すとして、鑑賞前に見てしまったその人の推薦のおかげで、その感想に僕の言葉以外は一切含まれないぜ、とは決して言えなくなってしまったし、もしかすると僕由来の感想が一つも無いのかもしれない。少なからず推薦者の影響は受けているはずだ。人は無自覚に他人の言葉を自分のモノにしてしまう。燕尾服を着ている宮本浩次、「エレガントマシマシ」←これ使っていいですよ。
しかし、この娯楽が有り余った世の中では、事前に情報を入れずに二時間消費するということのハードルが上がりまくっている。みんな、より多くの面白いことを体験したいし、見たいと思ってるから仕方ない。そう、最高のフィニッシュを目指して桃色な動画のシークバーを指で右往左往させてるお前のことだよ。
映画を1.5倍速で見ることが別段不思議とは思われなくなったり、やけに短めの動画が出回っていたりしているのも、娯楽飽和期に入ってしまった以上、当然の流れと言える。質問きてた!Q.映画を1.5倍速で見てしまいました。これって犯罪ですか? A.フランス映画以外だと死刑になる場合がある。
もしこの映画がつまらなかったら、後味が悪かったら、という怖さもあると思うが、そういう先入観は試しに一度押し殺してみて欲しい。とんだクソ映画だったとしても、それはそれで昼食のサイゼリヤでの話題にすれば楽しいじゃないか。アチアチなフォッカチはそんなお前を優しく包み込んでくれるはずだ。ネットレビューなんかに振り回されるな、振り回されるのならサイゼおなじみ間違い探し絵本、間違いない。
この文章だってそうだ。そもそもここまで読む人がいるのか知らないけど、すでにピンセットで鼻毛を抜きながら読んでいる人もいることだろう。みんな、100%のベクトルで何かに向き合うことは難しくなってきている。そんな方はとりあえずスマホを置いて鼻毛を抜くことに専念してください。かの有名な夏目漱石も鼻毛を抜いては原稿用紙の端に綺麗に並べる癖があったそうで、ここであなたがしょうもないうんちブログを閉じるか、鼻毛を植林するかで未来が変わるかもしれません。植林で未来を豊かに。
最近、演劇が舞台の小説を読んだ。そこで演劇に関して、演劇とは役者と観客との共犯関係によって成立するもの、と表していた。
つまり、最初から観客に楽しむ気が無ければ、どんなものも台無しになってしまう、ということ。
個人的に「どうせ」という先入観は作品を見ること、人や仕事と向き合うことに対して、大小様々ではあるが、大体の場合邪魔になるんだと思う。
どうせこの役者って薬やってたし、とか、灰皿テキーラ飲ませてたしとか、作品に一切関係のないことは全て作品をぼやけさせる原因になるうる。
また、どうせあの人が監督だし面白いに決まってる、なんて先入観も、やっぱり面白かったなんて言いながら期待値というボーダーを設けてしまった以上、100%で楽しむことは難しいと考える。
だから、頭をまっさらにして何事に対しても向き合い、受け入れる姿勢こそが純粋な面白さを感じるための手段の一つだと思う。だから、星の数なんて気にするな。ミシュランガイドを燃やして暖を取ろうぜ。
なにもレビューを参考にしてコンテンツを選ぶことが悪だなんて述べているわけではない。ただ、ネットに転がる良いところも見ようともしない星なんかに左右されず自分が面白いと思ったものを大切にしてほしい。なんでも評価がついてしまう世の中だからこそ、自分の楽しさが普遍性に飲み込まれてしまわぬように自身の楽しさの軸が重要になってくるんだと思う。
なんて、P席から大口叩いてる僕は今日、買った本のレビューのあまりの低さに涙している。もう読めない、助けてくるカナ⁉️😭
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