【非常勤の神様】R5.8.5

 ある平日の昼下がり、僕は友人とふたりで近所をぶらぶらと散歩していた。およそ社会から隔絶した存在である僕たちには、サラリーマンという存在をひどく厭わしく思う質があった。特にあのスーツというものが大きな十字架のように見えてしまって、なんとも居た堪れない心持ちになるのだ。したがって僕たちは、サラリーマンが絶対に出没しないであろう、風俗街と中華街が隣接する世紀末のような一帯を好んで歩いた。
 排気ダクトから漂う、甘ったるい油の臭いと、石鹸の匂いとが入り混じる悪臭に鼻が慣れてきた頃、ふと僕たちの目前に神社が佇んでいた。なぜこんな場所に、と僕は思ったが、それを見つけるや否や、友人は鳥居の真ん中をずけずけと進んでいった。その神社はたしかに小振りではあったが、拝殿やお賽銭箱があり、それから提灯などの装飾も施されていた。それなりに由緒正しい神社なのだろう。僕も友人のあとを追って、境内へと足を踏み入れた。
 しばらくして僕が友人に追いつくと、すでにお賽銭箱の前で、財布から小銭を探している最中だった。お祈りする内容は既に決めてあるらしい。やがて、5円玉をお賽銭箱に投げ入れ、ニ礼ニ拍手ののち、友人はこう続けた。

「世界から争いがなくなりますように」

 なんて利他的な願いなのだろう、と僕は感心した。同時に、とても5円で叶うようなスケールではないと野暮な考えも浮かんだ。そんなことを考えていると、奥の拝殿から足音が聞こえた。はたして、こんな最果ての神社に住み込みで働いている神職の方が存在するのだろうか。僕は大方、ホームレスか野良猫あたりだろうと思った。しかし、その音の主は人間でも、また動物でもなかった。拝殿から現れたのは、白衣装に白いヒゲをたくわえた、正真正銘の神様だった。
 その瞬間、僕はゾッとして、腰を抜かしそうになった。しかし友人は神様に気づいている様子もなく、深々と一礼を捧げている。この神様はどうやら僕にしか見えていないらしい。無論、僕は神様をお目にかかるのは初めてのことなので、神様がどういう手段で人間の願いを叶えているのか興味があった。間もなくして、神様は僕たちに正対し、二礼二拍手ののち、こう続けた。

「世界から争いがなくなりますように」

 僕は唖然とした。神様がお祈りをしているという事実を到底受け入れられなかったからだ。極めてなにか生命に対する侮辱を感じた僕は、その神様を睨みつけるように観察した。すると、神様の長いヒゲの裏に名札のようなものがあることに気づいた。神様が名札など付けている筈もないが、それでも好奇心を抑えきれず、神様に気づかれないよう恐る恐るヒゲの裏を覗き見た。そして、僕はそれの正体を突き止めた。

『非常勤』

 そう書かれたネームプレートが、神様の首元から提げられてあった。この神様は、非常勤の神様だったのである。先ほど神様が二拍手をする際、神様の右手の側面が真っ黒になっているのが見えた。僕はそれに見覚えがある。鉛筆やシャープペンシルを使っているときに利き手の側面に付着するそれだ。おそらくは鉛の跡、つまり、この非常勤の神様は何かしらの勉強をしている最中なのではないだろうか。
 唐突に、友人が再び5円玉を賽銭箱に投げ入れた。現在、この神社には僕たち以外に人はいないのでなんの支障もないのだが、この神様が見えている僕からすれば些か不憫に感じてしまう。

「大谷翔平が本塁打王を獲れますように」

 あらためて、なんと利他的な人間なのだろうと、僕は感服した。それから僕は非常勤の神様へと向き直り、その一挙手一投足を見逃すまいと目を凝らした。すると神様は、フッと鼻で笑い

「獲れるやろ」

 と吐き捨てた。もはや祈られてすらもなかった。自身の祈りが一蹴されていたことなどつゆ知らず、友人は僕の傍で深々と一礼をしている。その姿があまりにも憐れに思えたので、友人にすべてを打ち明けようとしたその刹那、神様がパンパンと二拍手する音が聞こえた。

「今年こそ採用試験に合格できますように」

 自分のお祈りをしていた。やはり受験勉強中らしい。免許はもっているが採用試験には合格できず、この神社で非常勤として勤務しているのだろう。ふと僕は浪人生の友人が頭に浮かんだ。その友人はいつも精神的に疲弊していて、他人を気遣う余裕がないとしきり言っていた。案外、この神様も自分のことで手一杯なのかもしれない。そう考えると不思議と怒りも落ち着いてきたが、やはり友人の分のお祈りを自身の合格祈願に充てていたことだけは許せない。僕はエナジードリンクが3本は買える残高のQUOカードをお賽銭箱に入れ、お祈りはせずに友人に帰ろうと声をかけた。
 鳥居を出てからすぐに、僕は拝殿を振り返った。すると遠目から、非常勤の神様がこちらへ向けて合掌しているのが見えた。最後に何かお祈りをしてくれているのだろうか。僕は足を止めて、耳を澄ました。

「鳥居の真ん中は通らないで」

 お願いされていた。

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