【T〜バイト先の奇人〜後編】R5.8.10

 Tが二軒目に選んだのは、同じくアメ村にある隠れ家的なバーだった。こちらはカウンター席が6席のみで、店内には、20代後半とおぼしきドレッドヘアーの店長がいた。
 店長は、Tに気づくや否や今度はハッキリと苦虫を噛み潰したような顔をした。ここまで店側にぞんざいに扱われる客というのも珍しい。そんな店長の第一声は「いらっしゃいませ」などではなく、「もう暴れんといてくださいよ」だった。たしか、一軒目のマスターは「暴れたりすることはない」と言っていたはずだ。これでは聞いていた話とまったく違うではないか。僕はすぐにでもTから逃げ出したい一心だったが、彼とこれからも同じアルバイト先に勤めることを鑑みれば迂闊な行動はできない。僕はTに気づかれないよう間隔を空けて、渋々、席に着くことにした。
 当時、僕もそれなりに酔いが回っていたので詳しいことまでは覚えていないのだが、会話の流れで何かを検索することになった。それはアーティストの名前や年齢だったり、そんな些細なことだったと思う。如何せんTはiPodユーザーなので、ネットワーク環境のない場所では調べものをすることができない。したがって僕が検索することになったのだが、その際にTになぜ携帯を持っていないのかを聞いてみた。するとTは平然と「いま携帯契約できないんですよねぇ」と答えた。フリック入力をする親指の震えが止まらなかった。果たして、このご時世に携帯が契約できないとは、一体どういう身の上なのだろうか。視界いっぱいに暗雲が立ち込めてきた。
 お手洗いに向かったTが席を外している間、僕は店長から、Tとはどういった関係なのか尋ねられた。実は、一軒目の店でも同じ質問をされていたのだが、両者とも「どうしてキミはあんなヤツと一緒にいるんだ」というニュアンスだった。それからTが席に戻ったのと入れ替わりで、僕もお手洗いに向かった。僕はトイレの中で、万が一にも対応できるようにiPhoneの緊急SOS設定をオンし、別れ際のフレーズを脳内でひとしきり反復したのち、万全の大勢を期して席へ戻った。すると、すぐに店内が異様な匂いで充満しているのがわかった。もしやと思い、Tに目を落とすと、彼がT麻を嗜んでいる最中だった。僕のなかで彼のグレードが『奇人』から『罪人』に昇格した瞬間である。Tのすぐ側には例のタッパーが置かれており、中には乾燥したT麻が入っていた。あのときTから感じた「アンダーグラウンドの香り」とは、もうほとんど正解だったのだ。
 そこで僕は、あらかじめ用意していた「シェアハウスしている友人が鍵を失くしたみたいなので帰ります」という真っ赤な嘘でその場を後にしようとした。するとTは「じゃあ私も帰ります」と言って、そっとタッパーに蓋をした。何が「じゃあ」なのかはわからないが、仕方なく僕はTとともにバーを後にした。
 無論、僕は即座に帰路に着く算段だった。しかし、Tが開口一番に僕へ放った言葉は「クラブ行きますよね」だった。Tは年下の僕に対しても徹底して敬語を欠かさないが、今の僕にはそれがかえって恐ろしく感じた。もはやTの敬語は下手に出ている人間のそれではなく、フリーザのそれだった。Tはすでにシャドウボクシングなどを始めており、彼の限りなく断定に近い勧誘を断るにはもう全てが手遅れだった。
 まもなくして、アメ村にある小さなクラブに到着してしまった。敷地面積でいえば、グリーンバーより少し大きいくらいのもので、客もかなり少なかった。受付の段階でさっそくTが揉めそうになっていたので、制止するのにかなり労力を要した。曰く、飲食物持ち込み禁止が気に食わないらしい。この辺りから僕は考える事を放棄した。
 フロアに入ると、さっそくTは知り合いを見つけ、執拗に絡んでいた。絡んでいたという表現を使うのは、明らかに先方が煩わしそうにしていたからだ。いつ殴られても文句は言えないTの行動をよそ目に、僕は気の良いお兄さんに奢ってもらったお酒を少しずつ飲んでいた。お兄さんからしっかりとクスリを勧められたが「いぃ、違法なんでぇ」と丁重にお断りした。絵に描いたような犯罪の温床だった。
 それからTがVIP席に乱入しているのを見て、僕のなかで、ぷつりと何かが切れた。そのままTを置いて、僕は黙ってクラブを後にした。家までの道のりをマップで検索しながら、久方ぶりのシャバの空気を噛み締めた。心なしか、街灯がいつもより煌びやかに見えた。すると臀部あたりに違和感を感じたので、後ろを振り返るとTが立っていた。それも真後ろにぴったりと、ほとんど密着しているような距離感だった。僕は24歳にして初めて自身の悲鳴を知った。意外と低く、野太い悲鳴だった。状況から察するに、Tはおそらくクラブからつまみ出されたのであろう。この時のTがどのような心情だったのか判らないが、どうして勝手に外に出たのか、と無表情で尋ねるTに対して、僕は咄嗟に、すでに帰る旨は伝えたという嘘をついた。存在しない記憶を刷り込まれたTの脳内はエラーを起こしたのか、「私も着いていきます」と訳の分からないことを言い始めたので、深夜帯でも人通りの多い宗右衛門町に撒いて帰った。

 後日、アルバイト先でTと再会したが、二軒目の途中から記憶がないようなので、僕は九死に一生を得た。あれから1年以上が経過した今でも、Tは隙を見ては僕を飲みに誘ってくる。相変わらず直方体のシルエットはご健在のままだ。
 以上の事柄から僕が学ぶべき教訓は『知らない人にはついていかない』である。

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