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松阪偏愛ツアー旅前ガイド①

こんにちは。

第2回ニッチャートラベル×VACANT “松阪偏愛ツアー“が2月11日(土)開催です。1回目は1回目でみんな手探りなところもあり、それはそれですごく楽しかったのですが(私だけだったら土下座)2回目はもっと楽しんでもらいたいという思いから“旅前ガイド“なるものを書いてみました。あぁ今回旅する松阪はこんなとこなんだな、という予備知識を入れてもらい、当日は我々と偏愛目線で歩きましょう。そんなこんなでご拝読いただければ幸いです。私の真面目な部分出ちゃってます。


本居宣長

ここ松阪で木綿商・小津家の次男として生まれた宣長は、江戸でお店を出すほどの裕福な商売人の家で育つも商売にはぜーんぜん興味がなく、勉強が大好きだった。そんな宣長を母は医者の道にと京都へ行くことを勧める。そこでの出会いがその後の彼を作り上げたと言っても過言ではない。松阪に戻った宣長は医業の傍ら強い関心のあった「源氏物語」「古事記」の研究に励み、“日本人は本来どんなものの考え方をしたのか“を知ろうとする。人情に善悪の基準をあてはめず、心のありのままを素直に感じること、それを素直に受け止めることを“もののあわれ“と説いた。自分の興味から目を逸らさず、人のために働き、出会いを無駄にせず、人生をかけて学び続けた全国に何百人と門人を持つ江戸時代の国学者。今日私たちが日本語を理解し古事記を日本誕生の物語として楽しめるのは彼のおかげなのだ。宣長は歴史上の人物ではなく今もなお至る所に存在する。今度は私たちがそんな彼に興味津々だ。


樹敬寺

浄土宗の寺院で、蒲生氏郷の松阪城下建設の際、松ヶ島城下より今ある新町に移った。そんな樹敬寺は本居家の菩提寺でもある。本居宣長夫妻・息子、春庭夫妻の墓があり背合わせに立っている。宣長はしばしば住職の説教を聞きに訪れていたらしく、歌会には44年の長きに渡り参加したそう。ここ樹敬寺には遺髪が、もう一つある奥墓には亡骸が葬られている。そして注目したいのが「この紋所が目に入らぬか。」でお馴染み、水戸黄門様の印籠にもある“三つ葉葵“をモチーフにした家紋。三つ葉葵の家紋といえば徳川家。紀州徳川家の歴代藩の御位牌が祀られていることによるそうだ。


赤壁校舎

松阪城跡の南側に隣接する御城番屋敷の石畳を抜けると、県立松阪工業高等学校がある。古い校門のすぐ左手に見えるのが、白と赤のコントラストが美しい赤壁校舎だ。“近代化産業遺産“にも認定されたここは、現在、松阪工業高校の資料館として大切に使用されている。明治35年、応用化学科専攻の工業学校として開校。当時は硫化水素を使用した実験が行われていたため、建物の塗料が黒変すると考えられていた。そのため壁は変色しない“朱“で塗られたそうだ。ハーフティンバー風に仕上げられた建物西面が見せ所だとか。


御城番屋敷

松坂城を護衛していた“松阪御城番“という役職の武士とその家族が住んでいた長家の武家屋敷。国の重要文化財にも指定され、今でも子孫の方が住まれ建物が維持されている。そのうちの一戸は無料公開されており、江戸時代から続く間取りが今も忠実に保存されているため、当時の暮らしを感じることができる。石畳を城に向かって歩けば江戸時代にタイムスリップ。想像する松坂城から、お殿様が城下町を見下ろしているかもしれない。どうしても志村けんのバカ殿様が浮かぶのは私だけじゃないはず。



つづく……

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