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■【より道-113】随筆_『続パンデミック体験記』(長谷部さかな)

今回の【より道】は、父が2021年10月に書き下ろした、随筆_『パンデミック体験記』の続編を掲載します。

2021年の10月ごろの父は、世の中が、パンデミックで騒いでいることを客観的に記していましたか、今回は、自らが病に伏せて体験してた事柄を綴っています。

後期高齢者で肺炎の持病をもっている父が、コロナに感染して一命を取り留めることができたのは、息子のじぶんとしては、大変ありがたいことですが、もしかしたら、現世でやり残してい事があると、仏さまが示してくださったのかもしれません。

このような、出来事ひとつひとつが、なにか目に見えないスピリチュアルな運命に導かれているものであるのであれば、文章を書き残すということが、父にとっての「人生の意味」なのだと思っています。


一 潜伏期

一日目 エンディングの続き(二〇二二年一月一日)

まさか『パンデミック体験記』の続編を書くことになるとは予期していなかった。この世の中、一寸先は闇だということはわかっているが、未来の闇の実態がどんなものかは予測できない。それでも、どうやら避けられない運命にあるということは、【パンデミック体験記】のエンディングの歯切れの悪さから、察知できたはずだが、しっかり察知できなかったところをみると、私の老化はかなり進んでいる。認知力、集中力、判断力の衰えは如何ともし難い。

ふりかえってみると、昨年の八月三十一日に『パンデミック体験記』のエンディングを書き終え、脱稿した当時は、日本政府はまだ緊急事態宣言とまん延防止等重点措置を適用中だった。新型コロナウイルスの世界的流行は収束のメドがつかず、私の草稿もエンディング記述の歯切れが悪く、いささか物足りないという後味が残った。

しかも、あの体験記は私自身が直接、体験した出来事をリアルに綴ったものではなく、もっぱらアルベール・カミユの小説『ペスト』の登場人物や私の親族の死について憶測をまじえて書いたものにすぎない。やはり、私自身が直接、経験したことをありのまま記述した文章のほうが、迫真のリアリティがあり、読み手に訴える力が強いと思う。

今年の状況はどうかというと、二年間猛威をふるい続けたコロナウイルスもようやく勢いが衰えてきたような気配もあるが、オミクロン株という新しい変異株の出現で勢いを盛り返しそうな兆しもあり、見通しは依然として予断を許さない。

日本政府は昨年9月30日に緊急事態宣言とまん延防止等重点措置を全面解除し、感染症対策に一区切りつける姿勢を示した。あたかもコロナが存在しないかのように見なす方針に転換したようにも見える。今年はまだはじまったばかりだが、今のところは、緊急事態宣言やまん延防止等重点措置のような行動制限をともなう感染症対策を施行する動きを政府は見せていない。


二日目 一族集合(一月二日)

毎年、正月二日にはいつも、子どもたちや孫たちが年始に集まってくる。私はテレビで箱根駅伝を観戦するのを楽しみにしているのだが、選手たちが箱根の山登りにさしかかる頃、孫たちがやってきて、三密(密閉・密集・密接)どころではなくなるので、山登りのスペシャリストのような選手たちの走りをゆっくり観戦することができない。

正月二日に千葉県浦安市の我が家に一族が集合するのが恒例行事になったのは平成になってからだ。昭和天皇も我が父も存命中の頃には岡山県新見市神郷高瀬の実家で正月を迎えていた。つまり、世紀をまたいで、正月の集合場所が変わったことになる。大きな違いは、神棚と仏壇の存在と不在だ。高瀬の実家には神棚と仏壇があり、天皇陛下皇后陛下のご真影や祖父母、曾祖父母の写真も飾ってあって、神仏やご先祖さまとともに正月を迎えるという雰囲気があった。

浦安の家で迎える二十一世紀の正月には神も仏もない。孫たちは、「そんなことをしたら(神さまや仏さまの)バチがあたるぞ」と叱られることもなく、パワハラやいじめにあうこともなく、大人たちからお年玉をもらうだ
けだから、気楽なものだ。

昔も今も変わらないのは、雑煮と屠蘇。私は雑煮を食べ、屠蘇をチビリチビリ飲みながら箱根駅伝を観戦するのを楽しみにしている。

三日目 ステイホーム(一月三日)

正月三日目は、新型コロナウイルスのまん延で。不要不急の外出がはばかれる昨今、誰一人我が家を訪れる客人もない。私はバカ正直にステイホームを守り、箱根駅伝を山下りから静かに観戦する。戦国駅伝という下馬評だったが、けっきょく青山学院大学が他大学のチームを大きく引き離して圧勝した。

孫息子が中学校の陸上部で部活をやっているというので、将来は青山学院大学に進学して、箱根駅伝で活躍してほしいとひそかに願っているが、肝心の本人が長距離はいやだと言っている。青山学院大学がムリなら、駒沢大学でもよいのだが、いずれにしても学力も走力もっと向上させなければ、箱根駅伝を走る選手にはなれそうもない。


四日目 初詣(一月四日)

我が家の守護神は不動明王という御縁から、 数年前までの初詣は、不動明王をご本尊とする成田山新勝寺まで出かけていた。最近は地元浦安の豊受神社ですませている。成田山新勝寺には五時間以上、並ばなければならないところを豊受神社は一時間も並べば賽銭箱にたどりつく。そういえば、子供の頃は、初詣の習慣がなかった。八幡神社なら隣家の近くにあり、並ばずにすんだのに。

今年の冬は例年より寒いので、ぐずぐずしているうちに、初詣に出かけるタイミングを逸して、心ならずも見送ってしまった。その時点では、神ならぬ身の知る由もなかったのだが、どうやら神罰があたったらしい。


五日目 感染症(一月五日)

人類の歴史をみると、狩猟や漁撈を中心に暮らしていた大昔、日本でいえば、縄文時代には感染症は大流行したことがない。少人数で野山や海浜で動物を狩り、魚介類を採捕する暮らしでは、いわゆる三密(密閉・密集・密
接)にはなりにくい。

弥生時代になって、農耕社会へ移行すると、人口が増加し、三密にもなりやすくなったが、周囲を海に囲まれた島国なので、外国と接触する機会が少なく、細菌やウイルスが侵入する機会も少なかった。パンデミックと呼ばれる世界的な感染症の蔓延の影響は比較的受けにくい。

それでも、天平時代になると、天然痘が大流行し、一説によると、総人口の三十パーセントが死んだ。当時の総人口は約六〇〇万人、死者数は一八〇万人にものぼったと推定される。なかでも、権勢をふるっていた藤原不比等の息子、武智麻呂、房前、宇合、麻呂の四兄弟が二年間のうちに次から次へ亡くなったことに衝撃を受けた聖武天皇は、疫病退散を祈願して、東大寺の廬舎那仏(大仏)の建立に踏み切ったという。

六日目 市中感染 (一月六日)

近所に住む友人のY氏とイオンの喫茶店でコーヒーを飲みながら約一時間にわたり歓談した。その間、三十分以上、マスクをはずしていた。喫茶店には客の数が多く、換気はよく行われているとはいえ、空気やエアロゾルの飛沫は飛びかっていただろうと思う。

その後、整骨医でマッサージをしてもらった。所要時間は約四十分間。マッサージ師ともマスクをはずして会話した。また、日の出公民館内の図書館分館に寄って、本数冊を返却した際、司書たちと会話をかわした。


七日目 大雪(一月七日)

大雪が降った。足が滑るから外出はひかえたほうがよいと家人に言われたが、隣町の歯科医で予約をとっていてキャンセルするのも心苦しいので、思い切って腰をあげ、定期健診を受けた。往復にはバスを利用している。乗
客の誰かから空気感染したか、エアロゾル感染、あるいは接触感染した可能性もないとはいえない。

夜、はげしい咳込みの発作が起こった。


八日目 咳(一月八日)

数年前までの私はカゼをよくひいたので、カゼ対策はかなり真剣に取り組んでいる。市販のクスリで熱を下げ、咳を止めてもあまり効果がない。いったんはおさまったようにみえても、しばらくすると、必ずといっていいほど、カゼはぶりかえしてくる。抗生薬をのめばウイルスを全滅させることができるが、全身の免疫力の低下につながり、かえってカゼをひきやすい体質になってしまう。

カゼ対策は自然治癒がいちばんだと思う。カゼ薬など服用せず、ひたすら熱に耐え、咳に耐えて、じぶんの身体が本来そなえもっている免疫力におまかせするのだ。その放置作戦で、近年は、カゼをひどくこじらせることもなく、無事すごしてきた。

今回もそのつもりで高熱と咳き込みに耐えぬくつもりでいたが、今回のような尋常でない咳き込みに見舞われると、やはり限界を感じる。それでも、かかりつけ医の診察を受診しようかとも思いかけたが、まあいい、様子をみようと、ガマンしてしまった。

九日目 ガマン強い(一月九日)

私は自分がガマン強いほうだと自覚している。しかし、この期に及んでもまだ自然治癒に期待をこめて、病院へ行こうとしないのはガマン強いというより、融通のきかない頑固ジジイというべきかもしれない。

まさか、もっぱらステイホームで暮らしている自分がコロナ陽性になるとは思いもよらないことだった。日本人にはコロナに感染しやすいタイプと感染しにくいタイプとの二種類があり、自分は後者に属すると、何の根拠もなく、思い込んでいた。

コロナは感染からの進行が非常に速いのが特徴だ。特に容態の急変がこわい。それに対抗するには、先手をとって、早めに対応する必要があるが、私の場合、初期症状をガマンしすぎて、発熱外来へのコンタクトが数日間遅
れたのではないかと反省している。たとえば、マニピュラブルというメルク社の飲み薬は発症してから数日以内に投与しなければ効果がないと言われている。私のようにガマンしすぎると、服用の時期を逸してしまう。


十日目 高熱(一月十日)

ついに体温が38度に達した。37度台で推移しているうちは、平然としていたが、さすがに38度になると、周章狼狽、うろたえる、今までほとんど経験したこともない未知のゾーンに入ってきたのだから。

日常生活とはまったくかけ離れた唐突な連想だが、高熱から熱河作戦を連想した。昭和六年(1931)の満州事変後、日本軍(関東軍)がしかけた中国熱河省、河北省への侵攻作戦である。関東軍は33年1月山海関で日中両軍の
衝突が発生したのを機に、2月熱河制圧に着手し、第6・第8師団、混成第14・第33旅団その他の兵力を動員して熱河省へ侵攻、3月4日承徳を占領したうえ10日前後に万里の長城の線に達した。これが熱河作戦。

昭和十二年に盧溝橋の一発から日中戦争が始まると、関東軍は東条英機参謀長を兵団長として熱河作戦を発動し、内蒙古に進撃したが、これは熱河出撃であって、熱河作戦にはふくまれない。つまり、「熱河作戦」と「熱河出撃」とは意味が違うのだが、高熱で意識が混濁すると、そんなことはどうでもよくなる。


十一日目 意識もうろう(一月十一日)

体温38度3へ上昇。意識もうろうとなり、何か話そうとしてもロレツがまわらない。白旗をかかげて、タクシーで虎ノ門浦安クリニックの発熱外来を訪れることにした。この判断は、私自身が下したものというより、同じ市内に住む長女の意向が強く反映されている。

実は、私はすでにエンディング・ノート(遺書)を書いていて、その中に、「万一の場合でも、救急車を呼ぶな」という一条がある。人間には死に時というものがあり、絶好の死に時は逃がすなという意味をこめたつもりだが、よく考えてみると、タクシーに乗って発熱外来へ行くのは救急車を呼んで搬送されるのとあまり変わらない。矛盾した行為だが、意識もうろうの状態ではそんな矛盾には思いが及ばなかった。


十二日目 コロナ陽性(一月十二日)

発熱外来でPCR検査を受けた。結果はコロナ陽性と告げられ、ガクゼン。

私はもっぱらステイホームで暮らしている。自分がコロナに市中感染するとは想定外のありえないことだった。しかし、コロナ陽性が確認されると、私は統計上は、コロナ感染者である。統計の世界の単なる一数字になってしまう。

人間には二種類あり、あちら側にいるのは健常者、こちら側にいるのはコロナ感染者だ。


十三日目 保健所による調整(一月十三日)

コロナ陽性が確認されたときは、軽症なので、当分は自宅療養、入院の必要はないとのことだった。午後になって、市川保健所から電話が入り、パルスオキシメーター(血中酸素飽和濃度測定装置)の数値が基準値の95%を下まわっていることから、ご希望であれば順天堂浦安病院への入院を調整するという申し入れがあった。あくまでも保健所からの指示や要請ではなく、患者本人の希望による自己決定というタテマエだ。

そこで、素直に保健所に調整を依頼することにし、夕方には順天堂浦安病院に入院した。この間の体温の変化はピーク時が38度だったのに対して、入院後は38.9度まで上昇した。また、つけっぱなしのパルスオキシメーターは、常に95%以下の数値を示し続けている。これらの事実だけでも入院が適切な措置だったことがわかる。その後、患者数が急増して、病床使用率が20パーセント超になると、まん延防止等重点措置の適用は確実だ。場合によっては、入院を断られる可能性もあっただろうと想像できる。

考えてみると、私はこれまで一度も病気で入院したことがない。どんな体験をさせてもらうのか、好奇心が湧いてきたのも事実だ。

誰が言い出したかは忘れたが、軍隊と刑務所と病院の生活を体験しなければ、人生はわからないという説を聞いたことがある。私には戦争体験も刑務所体験もない。せめて入院だけでも体験しておかないと、人生がわからな
いまま死んでしまう。

二 入院

一日目 順天堂大学付属浦安病院(一月十四日)

夕方、順天堂大学浦安病院への入院手続きをすませ、いよいよ入院生活を体験することになった。ベッドに寝転がった体のは点滴のチューブが三、四本つながれている。

発熱外来では軽症の診断だったが、大学病院の医師の診断では、中等症IIで、驚いた。熱は38度9まで上昇し、その後、酸素投与やステロイド投与などの点滴治療を中心とした治療をほどこされた。そのおかげで、睡眠中に汗
を大量にかいて、解熱に向かい、朝方には体温が36度台まで低下した。

肺の炎症の影が次から次へとあらわれては消えてゆく悪夢を見続けるが、朝までトイレにも行かず、昏々と眠り続けた。

二日目 柵越え(一月十五日)

昨夜は大量に発汗し、体温は36度3と平熱に近づいた。血圧も安定。咳もかなりおさまったが、こんどはしゃっくりが出る。横隔膜のけいれんだ。眠ろうとしても、横隔膜がけいれんすると、入眠できない。倦怠感、疲労感、鼻水、味覚障害、聴覚障害などの症状はない。

看護師に問い合わせてみたが、コロナとしゃっくりとの因果関係ははっきりしていないらしい。便秘も一週間以上続いているのが気になる。(その後、次女が見つけてくれたネット情報によれば、肺炎をおこした患者は、迷走神経や横隔神経に直接刺激が与えられて症状が出ることがあると、書いてあったそうだ)。

今は熱が平熱近くまで下がり、楽になったが、38.9度の高熱になると、意識もうろうとなり、もはや人間ではない、離人症になったような気分になる。 No longer human,という太宰治の小説『人間失格』の英訳タイトル名をつぶやいてみた。

ベッドの横には柵が設けられている。乗り越えて、トイレに向かおうとすると、看護師がとんできた。きびしい叱責を受ける。トイレはいかなる状況であっても、自分ひとりで行こうとしてはいけない。必ず看護師の手を借りること。

三日目 しっかりしている(一月十六日)

寝たきり暮らしを長く続けると、運動不足になる。それでは退院後の生活が困るだろうと判断して、ベッドで足腰の屈伸運動をしていると、看護師の声がとんできた。「やめてください。アブないよー」。

ここはおとなしく従うしかない。回診医師は、「ハセベさんはしっかりしている」と言ってくれた。冷静沈着ーーわがままは云わない、グチもこぼさない、足るを知る模範的なコロナ老人をめざすーーという心構えが「しっかりしている」という意味になるだろうと自分に都合のよいような解釈をする。あるいは「まだ認知症が中等症IIまでは進行していない」という意味か。

便秘は一時的に問題が解消した。

こうしてふりかえってみると、私自身、しっかりしているとはいえ、気のゆるみがあったことは否めない。もともとズボラな性格なので、マスクは着用していても、鼻は露出するなどして、きちんと着用せず、うがいや手洗いも手抜きする傾向があった。コロナ曰く、なめたらいかんぜよ。


四日目 オムツ(一月十七日)

体温は36度4分前後で推移し、咳もおさまりつつある。しかし、読書やパソコンは酸素を消費することにつながるので、自粛し、終日テレビをながめている。倦怠感や疲労感、のどの痛み、鼻汁、味覚嗅覚障害などの自覚はないが、しばらく読書とパソコンは控えたほうがよい。

トイレから戻ったとき、ベッドにドスンと腰をおろしたら、「もっと静かに」と注意された。シャワーを浴びるとき、看護師にオムツを替えてもらった。赤ん坊帰りしたような気持ちだ。

私の体の内部では肺の炎症の影が出現、消滅を繰り返している。医師は酸素投与などの処置で私の体がウイルスと戦うのをサポートしてくれている。軽症ではなく、中等症IIの身は、ここでウイルスに弱みを見せれば、集中治療室(ICU)に移り、人口呼吸器、エクモ(体外式人工肺)の手当を受ける重症患者の仲間に入れられてしまうだろう。

これからは、なるべく重症化しないようするだけだが、それは医師の仕事だ。私はすべてを医師の判断にゆだねる。生か死か、どちらに転ぼうと、結果は問わない。

五日目 重症化させない(一月十八日)

入院時は青白い顔をしていたが、今は元気に見えると、婦長さんらしき人が言った。入院時の医師の措置が適切だったらしい。あとは重症化しないですむような医療措置をしてくれているのだそうだ。

それよりも、さしせまって気がかりなのは、しゃっくりがとまらないこと。横隔膜が痙攣すると、寝つきが悪くなる。眠れない。


六日目 ナースコール(一月十九日)

しゃっくりをとめる薬というメトクロプラミド(プリンペラン)を服用したら、深夜零時頃、ようやく横隔膜痙攣がとまった。これで安眠できる。死の淵をさまよったことなど忘れて、今夜からはぐっすり眠れそうだ。

夜中に尿意をもよおしたので、ナースコールのボタンを押すと、看護師がやってきたので、「おはよう」というと、「おはようじゃないよ」と返された。時計をみると、午前三時である。「それでは、もうひと眠り」と言って、ベッドに戻る。

この看護師はひょうきんなところがあって、トイレに連れていくときも、「ほい、ほい」と声をかける。犬や牛に声かけをしているようにも聞こえるが、患者はバカにされたような気分にはならない。


七日目 酸素が足りないよ(一月二十日)

テレビドラマの一シーンのように点滴のチューブが何本か患者の体につながれている。なかでも特に重要なのは酸素補給をするため鼻に差し込められたチューブだ。患者の体は「酸素が足りないよ」と訴え続けているので、補給してやらなければならない。パルスオキシメーターの数値を示す点滴チューブは、95%が目安。それ以下になれば、危険シグナル点灯だが、私の場合、今までのところ、ほとんどいつも)95%以下の数値で低迷している。

その他の点滴チューブは、血液サラサラにする薬やアレルギーを抑える薬やステロイド剤などを補給してくれているらしい。

シャワーを浴びる。「元気になった」と看護師が言ってくれた。


八日目 初症例(一月二十一日)

入院に際しては、ノートパソコンと本を持ち込んでいたが、パソコン操作や読書はエネルギーを奪い、血中酸素飽和濃度の低下につながるというので、これまで、パソコン使用と読書はひかえていた。そろそろはじめようと、看護師にWi-Fiの設定をしてもらって、まず家族にメールを送ってから、出身大学の同窓生グループメール宛に、コロナ陽性で入院中という内容の一斉メールを発信した。

メンバーは全員八十代だが、このグループでコロナ陽性になったのは私が初症例だ。人口約十六万人の浦安市内の感染者では、最近は毎日およそ85人ずつ増えている。

▼1月13日3264例目 91759例目 1月12日 80代男性
▼1月16日3355例目 94225例目 1月14日 70代女性

感染者の市内最高齢は1月13日以来、私の82歳だったが、1月18日に90台以上女性が感染して、私は首位の座から滑り落ちた。しかし、考えようによっては、市内最高齢の地位を五日間も維持したのは、すごいことかもしれない。

一月十六日に感染が確認された70代女性は私と同居している妻で、発熱は37度まで上昇したが、その後、平熱に戻り、一月二十一日、保健所によって陽性解除された。

本日から3月21日まで東京都と首都圏三県では二回目のまん延防止等重点措置が適用されることになった。緊急事態宣言の発出とまではいかない。


九日目 オミクロンではなくデルタ(一月二十二日)

車椅子で七階の病室から一階の検査室に移送され、CT(コンピューター断層撮影)をとった。また、試験的に鼻に差し込んだ点滴チューブをはずして、しばらく酸素投与を中止してみたら、血中酸素飽和濃度が89%ー90%にまで低下した。これは危険な水準だが、それでも、自覚症状では息苦しさは感じることもなく、倦怠感もそれほどひどくはない。

夕方の医師回診で、私が感染したのは、オミクロン株ではなく、デルタ株という意外な診断結果を告げられた。デルタは年末には浦安市内の感染者数ゼロの日が一か月くらい続いていた。ほぼ収束したと思っていたが、オミクロンが流行しはじめた今頃になって、なぜ、よりにもよって私がデルタに感染したのか、まったくわけがわからない。


十日目 オンライン病気見舞(一月二十三日)

大相撲初場所千秋楽。御嶽海が十三勝二敗の成績で優勝し、大関昇進を確実した。テレビ桟敷での大相撲観戦は、コロナ患者にとっては酸素を消費すれるリスクが少なく、絶好の息抜きになる。しかし、明日からは面白そうな番組がない。朝ドラの『カムカムエヴリボディ』と大河ドラマの『鎌倉殿の十三人』、あとはコロナ関連ニュース位か。

そろそろ、読書を再開する時期が来たようだ。裸になってシャワーを浴び、看護師さんに肩や尻を洗ってもらった。

午後八時、末娘が用意してくれたAmazonのエコーショー「アレクサ」というアプリを利用して、子どもたちや孫たちのオンライン遠隔病気見舞を受けた。病院での面会は禁止されているが、このようなアプリを使えば、家族とのコミュニケーションはできることがわかった。


十一日目 読書再開(一月二十四日)

自宅から一冊だけ持参した養老孟司『バカの壁』を読みはじめる。その他に長男が差し入れしてくれた百田尚樹『日本国紀』、瀬戸内寂聴『寂聴九十七歳の遺言』、瀬尾まいこ『そしてバトンは渡された』がある。三女がアマゾンに注文してくれた井上荒野『あちらにいる鬼』、有吉佐和子『非色』もそのうち手元に届くことになっている。

病院に一冊だけ持参を許されたとすれば、どんな書を何を選ぶか。私が選んだのは論語でも聖書でもない。『バカの壁』だが、それより手っ取り早いところで、『寂聴九十七歳の遺言』を読んだ。「私の最後の不倫相手は四歳年下の作家、井上光晴さんでした」と寂聴はいう。

井上光晴は「日本のドストエフスキー」と称される作家で、いかにも寂聴が惚れ込みそうな天才作家の風貌の持主だが、私は彼の小説を読んだことがない。しかし、「日本のドストエフスキー」とはどんな作家で、どんな小説を書いているのか、興味が湧いてきた。そこで、代表作の『地の群れ』や娘の井上荒野の小説『あちらにいる鬼』も読むことにした。鬼とは寂聴のことだろう。

もっとも、ドストエフスキーの小説がよく読まれたのは私がまだ若い頃の話だ。今はドストエフスキーという名前に反応する読者はめったにいない。


十二日目 ステロイド効果あり(一月二十五日)

医師回診で、点滴のステロイド効果ありと、告げられた。酸素飽和濃度が96%-97%まで改善したという。ステロイドは酸素投与が減少しても、酸素濃度は低下していない。これはよい傾向だーーと言われても、何のことやら意味がわからないが、好材料であることを信じて、結果を待つことにしよう。

テレビ番組でハイフロセラピー(鼻に差し込んだチューブによって酸素投与を続ける治療法)がをほどこされている様子が放映されていた。どうやら私が受けている治療もそのハイフロセラピーらしい。これは、集中治療室(ICU)で人工呼吸器を使用する一歩手前の段階だと思う。


十三日目 病院食(一月二十六日)

体温、血圧などの数値は安定している。点滴の血液ササラにするチューブの投与は中止したが、血中酸素飽和濃度は相変わらず95%のボーダーライン前後を上下している。

21時00分、医師回診。肺の炎症は緩急・増減を繰り返しているが、酸素吸入がまだ不十分で、月末退院は難しそうだ。

コロナ患者は、一日三回、病院食を与えられる。朝食は午前8時頃、昼食は正午頃、夕食は18時頃。メニューは栄養バランスを考慮して、つくられているはずだが、豪華な刺身やてんぷらやステーキが出てくるわけではない。ボリュームはやや少なめで、自宅で食べているボリュームのおよそ七分目くらいだ。

コロナに感染したにもかかわらず、私は食欲旺盛で、味覚嗅覚障害もないので、病院食をおいしくいただいている。ボリュームに関しては、物足りなさを感じるほどだ。というのは、食事の時間が近づくと、なんとなく空腹感を感じてくるからだ。この空腹感は昭和二十年代にも感じたなつかしい感情だが、そのなつかしい感情がよみがえってくる。

この世をばわが世とぞ思ふ望月もちづきの欠けたることもなしと思へば

位人臣をきわめた摂政関白藤原道長作と伝えられる和歌だが、今の私は、

この世をば君が代とぞ思ふ望月もちづきの欠けたるところありと思へば

という気分に近い。君が世の君は私ではない。よきにはからえ。


十四日目 坐立運動(一月二十七日)

午前中、医師回診。酸素濃度は改善傾向にある由。医師の指示で坐立運動を五回繰り返したが、息切れはしない。「自分が病人だという気がしないんですよ」と、私は医師に言った。

あとでわかったことだが、ステロイドにはドーピングのような効果があるという。どちらかというと、弱気になりがちな私が、医師に向かってこんな強気の発言をするのはステロイドのドーピング効果だったかもしれない)。


十五日目 フェリチン(一月二十八日)

1930 医師回診。

「フェリチンの値が下がっている。ステロイドを徐々に減らしていきましょう」と医師がいう。意味がわからないので、質問した。

「フェリチンとは何ですか」

「重症化の指標と思っていただいてよいでしょう」

「はあ、そうですか」と、意味はわからないながらも、納得した。私としては、要するに、重症化しなければ、それでよい。

どうやら来週火曜日には退院させてもらえそうだ。退院後に調べたところによると、フェリチンとは、生物が生命を維持するために、最も大事なミネラルである鉄を貯蔵するタンパク質のカゴのことで、 全身にある。フェリチン量を測ることにより、体の中の鉄不足を把握できる。

鉄の不足によって起こりえる不調には、不定愁訴と言われる疲れやすい・動悸・息切れ・頭痛・肩こり・朝起きられないなどの症状があり、またイライラしやすい・注意力低下・うつ・不安症のような精神症状になりやすいとも言われている。ということは、鉄不足の指標であり、フェリチンの値が下がるということは、鉄不足が解消に向かっているということか。


十六日目 無意識の行動(一月二十九日)

病室のベッド用には二枚重ねの薄いフトンが使われている。患者にとっては暑からず、寒からずと感じるような仕様だが、心持ち、やや寒く感じるように温度調節がされているようだ。

看護師が二枚重ねのフトンがはがれているのに気がついて、「どうしたの?」と聞いてきた。私は答えられない。睡眠中に無意識のうちにあばれて、二枚重ねをはがしてしまったようだ。理性はまったく関係ない。理性のない無意識がよくそんなに器用な行動ができたものだと感心する。

夢も無意識の産物だ。夢の内容は荒唐無稽のものが多いが、なかには、今回の入院体験で見た、「高熱が出たとき、肺の炎症が刻一刻、緩急・増減を繰り返すリアルな夢」を見ることもある。

また、故郷の限界集落無人駅に降り立って、短歌を詠む夢も見た。入院中、俳句や川柳はつくれないのに、短歌らしきものをつくったのは如何なる無意識の作用によるものだろうか。俳句や川柳は気持ちに余裕のある時でないとつくれない。せっぱつまった時の気持ちを表現するのに適した形式は短歌かもしれない。

だれかしら昔なじみがいるはずの無人の駅にひとり降り立つ

幾山河限界集落無人駅絶対孤独コロナ老人

死の淵の病床六尺ホトトギスコロナ老人生きている何故

刻一刻緩急増減繰り返し炎症の影あらわれて消ゆ

死の淵のコロナ老人バカの壁叩いて問うや人生の意味


十七日目 点滴チューブをすべてはずす(一月三十日)

鼻に差し込んだ点滴チューブがはずされた。これですべての点滴チューブから解放されたことになる。昼間は寝そべったりせず、椅子かベッドに座るよう看護師に言われた。退院・外出の準備のようだ。

アプリ「アレクサ」を媒体とする家族とのオンライン・コミュニケーションを再度実施。


十八日目 隔離解除(一月三十一日)

12時00分 隔離解除。病室のドアが解放された。看護師たちは防護服なしで患者に接することができるようになった。ただし、家族との面会は引き続き禁止。

夕食のメニューは、こころなしか、いつになく豪華なごちそうという印象を受ける。

ご飯 150g
フライ盛り合わせ(マグローエビ)
うの花
小松菜と人参の和え物


十九日目 退院許可(二月一日)

入院期間が19日と長引いた理由は、私がもともと間質性肺炎にかかっていて、現在もなお肺炎の影がすべて消失したわけではないからだと説明された。いわば、仮釈放のような措置だと思う。今後とも、定期的に健康観察を受ける必要がある。

デルタが完治しても、オミクロンに感染する可能性はある。デルタの後遺症にも注意しなければならない。三月十四日には、三回目のワクチン接種を受ける手続きを長女がすませてくれた。

まだまだ、安心はできないが、ともかく退院にこぎつけることができ、ホッと一息ついた。

補足その一

健康経過観察(一回目 二月十四日)

十二時三十分、順天堂大学付属浦安病院で健康経過観察を受けた。CTの画像を見ると、肺炎の影はかなり少なくなっている。順調に恢復しているように見えるが、気になるのは、あちこちにできた炎症が水分を過剰に吸い上げた結果、全身が脱水症状になって腎臓や肝臓に影響が出ていることだ。「もっと水分を補給してください」と医師は言った。ミネラルウォーターを一日二リットル以上、飲む必要がある。血液検査の結果も数値の改善がほとんどみられない。

間質性肺炎がどのような病気か、医師からの詳しい説明はなかったが(あっても理解できない)、付き添ってくれた長女の解説によると、コロナによる肺炎と間質性肺炎は別物だという。炎症の場所も違う。コロナによる肺炎は完治に向かっているが、CT検査で間質性肺炎のカゲがうつっていたので、引き続き様子を見ましょうということらしい。

もっとわかりやすくいうと、コップの中のものが炎症を起こしている状態がコロナの肺炎で、間質性肺炎はコップ自体が炎症を起こしている状態だ。なるほど。さらに、ネット情報で詳しく調べてみたところによると、間質性肺炎は肺が固く縮む病気だそうだ。厚生労働省の特定疾患(いわゆる難病)の一つであり、診断法や治療法が十分に確立されていない。いちど罹患すると、呼吸機能がじわじわ低下する。致死率は100%だが、今すぐ死ぬわけではなく、五年位は生き延びるのがふつうで、なかには十年生存する例もあるという。

担当医の治療はステロイド投与が成功して、今回はなんとか退院にこぎつけた。退院後もステロイド剤などは飲み薬で投与を続け、通院によって健康経過観察を受けながら、薬の投与量を徐々に減らしていくという方針のようだ。急激に減らすと、悪影響が出るという。私は医師の指示通り投与量を徐々に減らしながらステロイド剤を飲み続けているが、ステロイドが副作用をともなう「諸刃の剣」であることは覚悟しておかなければならない。

咳や息切れは、間質性肺炎のため起こっている症状だと思われる。その他、コロナの後遺症として気になるのは起立性調節障害とブレインフォグだ。起立性調節障害はソファなどに座っていて、急に立ち上がると、頭がふらつく症状である。一時的な貧血で、脳内の血が流れなくなってしまうらしい。一分間くらい立ち止まり、手すりかタンスか何かにつかまってじっとしていると、不快感は消える。ブレインフォグは脳に霧がかかったようにモヤモヤとして、日常的な物事をしばらく思い出せなかったり、普段からやっていることが混乱してできないなどの症状が出るものだという。

このような症状は単なる老化現象なのだろうか。コロナの後遺症ないし副反応の一種のあらわれかもしれない。

補足その二 

ロシアによるウクライナ軍事侵攻 (二月二十四日)

二月二十四日、ロシアのプーチン大統領がウクライナへの軍事作戦を行うと述べた演説が各メディアに対して公表された後、ウクライナの首都キエフの近くを含むウクライナ各地で砲撃や空襲が開始された。これを受けてウクライナのゼレンスキー大統領は同日、戒厳令を布いて18歳から60歳の男性を出国禁止にする「総動員令」に署名し、戦争状態に入った。(概略Wikipedia)

人間の平等をタテマエとする共産主義国家ロシアは、いかなる大義名分をかかげて、ウクライナへの軍事侵攻を正当化したのだろうか。

アメリカ合衆国のバイデン大統領は、二月十八日に、ロシアのプーチン大統領がウクライナ侵攻を決断したと確信していると、述べた。人間の自由と民主主義をタテマエとするバイデン大統領は、情報を入手していたものの、ロシアの軍事進攻を止めようとはしなかった。今のところ、ロシアに対して経済的制裁を加えるだけにとどめ、ウクライナ側に立って参戦する自由は保留しているように見える。

やはり人類は、滅びの道を進むのだろうか。

補足その三

健康経過観察(二回目 三月七日)

順天堂大学付属浦安病院呼吸器内科における第二回目の経過観察ーーレントゲン撮影と血液検査の結果、次の診断を知らされた。

・炎症は減少したが、まだ少しは残っている。
・脱水症状による腎臓と肝臓の症状悪化の兆候は見られなくなった。
・咳ぜん息やアレルギー性鼻炎の症状に著しい改善は見られない。
・便秘の症状に著しい変化はない。
・肺炎薬プレドニン錠の投与量は次の通り徐々に減らしていく。

2/1-2/14 5錠
2/15-2/28 4錠
3/1-3/15 3錠
3/16-3/31 2錠
4/1-4/11 1錠

・一時的に脱水状態になったため飲み水の摂取量は2/15以降一日2リットル以上とされていたが、3/7以降一日1リットル以下
でよい。
・緩下剤の酸化マグネシウムは毎食後1錠服用するが、ピムロ顆粒(センナ)は3-4日に一錠服用とする。
・アレルギー性鼻炎薬のデザレックスと吸入薬シムビコートは一日一回服用し続ける。

肺炎はほぼ完治に近いとみてよさそうだが、いちど罹患すると、呼吸機能がじわじわ低下する致死率100%の難病で、今すぐ死ぬわけではないとはいえ、五年後には死ぬのがふつうだというネット情報はやはり気になる。私としては余命五年もあれば、八十八歳、天寿を全うしたと納得できる年齢だ。最後は人工呼吸器で延命する必要はなく、亡くなる直前にだけ、麻酔薬による鎮静と疼痛緩和をしてくれさえすればそれでよい。

補足その四 

健康経過観察(三回目 四月十一日)

順天堂大学付属浦安病院で三回目の健康経過観察を受けたところ、コロナにより新しくできた炎症は一切見られないので、ほぼ完治したという意味の診断が医師から下された。これにて一件落着と思いたいが、この世の中は甘くない。厳密にいうと、すべてが落着するわけではなさそうだ。

補足その五

健康経過観察(四回目 八月一日)

四回目の健康経過観察はレントゲン撮影と血液検査。その結果により、コロナウイルスに関しては異常なし、オミクロン株には感染していないので、当面は心配することはないが、肺が固く縮む間質性肺炎については、引き続き健康経過観察が必要であることが確認された。次回の健康観察日は10月17日(月)の予定。

つまり、コロナウイルスとは縁がきれても、間質性肺炎とは死ぬまで縁がきれそうもないということになる。その他に、緩下剤の処方箋を渡され、咳ぜん息の吸入薬の処方箋はかかりつけのクリニックから貰ってくれと言われたが、緩下剤と咳ぜん息薬は今すぐイノチにかかわるような重篤な病気ではないし、縁を切って断薬しても大勢に影響はない。

補足その六 

ワクチン接種(四回目 八月十六日)

明海クリニックで四回目のワクチン接種を受けた。正反応も副反応もない。コロナのデルタ株に感染した身としては、ワクチン接種によってコロナへの抗体が増すことへの確信が持てないが、接種していなければ間質性肺炎が重症化していただろうと言われると反論できない。要するに、ワクチンを信じるかどうかという問題になると、宗教か科学かわからなくなってくる。


補足の補足(二〇二二年八月三十一日)

今日は『続パンデミック体験記』の原稿締切日である。昨年の今日も『パンデミック体験記』というタイトルで同じような文章を書いた。私の予測によれば、おそくとも、この日までには新型コロナウイルスの世界的流行は終息のメドがついているはずだったが、一年たっても、状況はあまり変わらない。

と、ここまで書いたが、実は大きく変わっている。昨年の今頃は緊急事態宣言とまん延防止等重点措置が施行されていたが、今年の夏は施行されていない。昨年、ロシアはウクライナに軍事進攻をしておらず、両国は戦争状態に入っていなかった。ガソリンや食料品をはじめとする物価高による世界的なインフレも目立たなかった。そして、何よりも私自身が、コロナに感染していなかった。『続パンデミック体験記』という文章を書きながら、パンデミックを体験していなかった。

では、なぜ、「状況はあまり変わらない」と、私は思ってしまったのだろう。緊急事態宣言が施行されても、施行されなくても、ロシアがウクライナと戦争してもしなくても、ガソリンの価格が高騰してもしなくても、そして、私がパンデミックを直接体験してもしなくても、状況はあまり変わらないということなのだろうか。

そうではない。私のいう「状況」とは、アルベール・カミユの小説『ペスト』で起こったような新型コロナウイルスの集団免疫だ。その状況は、今の時点では実現していないように見えるが、実はそのこと自体もあいまいだ。もしかしたら、「集団免疫」という言葉の定義如何によっては、すでに実現しているのかもしれないのだ。日本政府は定義変更に向けて舵を切ったような気配があるが、私のボンクラ頭では真相がよくわからないし、ついていけない。

はっきり言えるのは、コロナとかかわりがあろうと、なかろうと、いずれ人間は老い、病み、死ぬーーということだけだ。

アルベール・カミユの小説【ペスト】に引用されている警句の意味をもう一度、考えた。

ある種の監禁状態を他のある種のそれによって表現することは、何であれ実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現することと同じくらいに、理にかなったことである。 

 ダニエル・デフォー


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