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【20日目】吉野村の謎

ご隠居からのメール:【吉野村の謎】

【謎の回答】
①いつ、長谷部の子孫は吉野里もしくは高瀬に移り住んだのか
⇒長谷部の子孫が吉野里もしくは高瀬に移り住んだのは、たぶん上月城の戦いの後。

②なぜ、長谷部は広い土地を持っているのか
⇒たぶん先住民の鬼を追い払って、自分の土地にし、権力者(東寺、尼子氏、毛利氏、新見氏、豊臣氏、徳川氏などの代官とテイクアンドギブの交渉をしながら、しぶとく生き残った。(現在のブライダル業界で働く者たちの運命も戦国時代と似たようなものか。前沢有作の行動の真相は?)。

③いつ、吉野里から高瀬に呼び名が変わったのか

⇒これが最大の謎。たぶん1578年の前後だろう。

④いつ、長谷部氏と松田氏は政略婚をしたのか
⇒やはり1578年の前後だと思う。

⑤なぜ、松田は高瀬に逃げてきたのか
⇒松田氏は白鹿城が落城してから高瀬城に身を寄せ、高瀬城の落城後は転々として上月城で敗れた後、一族の誰かが高瀬に逃げた。

⑥なぜ、大原氏は松田氏を頼って三室にきたのか
⇒大原氏の歴史は比較的新しい。おそらくは江戸時代の末期か明治時代に入ってからだ。松田氏が三室まで勢力を広げたのだろう。なお、江戸時代以前の三室は新見庄の内側ではなく、新見藩の土地だった。

その他では、
・1222-1287:新見庄 は間違い。鎌倉中期の年号を示したものだ。新見庄の成立は平安時代の末期、平清盛の頃。


返信:【吉野村の謎】

『長谷部は山名、尼子、毛利家に仕えた』とあるので、松田氏と婚姻関係になるには、尼子氏に仕えた時代の可能性が高い。長谷部氏は、1467年には山名氏家来。1555年には毛利氏の家来になっているので、その間の歴史をみてみると、

1524年に尼子氏が伯耆(日野)を支配していたという資料があった。日野は信連が子孫を残した場所だ。この時に、長谷部氏は、尼子氏の家来になったと推測されるので、松田氏と親族関係になるのであれば、この頃になる。

その後、長谷部氏は毛利氏の家来になるので、この頃の出来事をみてみると、1540年に尼子氏が毛利氏の居城吉田郡山城を攻めて敗戦していた。その際に、『国衆が離反した』とあるので、このときに毛利氏の家臣になったのではないかね。吉田郡山城は、上下からも日野からも1日以内で到着する場所だ。

吉野里の住民を追い出したのが、長谷部元信とすると1540年から1600年の間。ただ、毛利氏の家臣が尼子氏の家臣を助けるために1578年の上月城の戦い後、吉野里を襲撃し、高瀬村にするのは、さすがに、毛利さんが怒るのと思うし、そこまでの義理が松田氏にないとできない。

遠い親族の永住地を確保するために非人道的な行為をするのかね。長谷部の一族を守るためなら解るが、、、

⇓⇓こんな物語を考えた⇓⇓
1186年、長谷部信連は平家滅亡後、伯耆に子を残して源頼朝に仕え能登へ行った。

時がたち、伯耆の守護となった山名氏の家来となった長谷部信連の子孫は1467年、応仁の乱に巻き込まれ長谷部種連は死去。当時、松田元澄は東軍の赤松氏につき西軍の山名氏を追い落とした。

1524年、尼子氏は、将軍足利義晴の命により、出雲・伯耆・石見・隠岐から 棟別銭を徴収するようになり長谷部氏と松田氏は尼子の家来となる。この頃、長谷部氏と松田氏は親族関係になる。

1540年、尼子晴久が毛利氏の本拠吉田郡山城を攻撃するも翌年に撤退。その際に長谷部氏は毛利方に捕まり家来となる。

1555年、当主の長谷部元政・元信父子は、毛利氏と陶氏の厳島の戦いの前哨戦・折敷畑の戦いに参陣し功績を挙げる

この頃、吉野里に侵入し先住民を追い出し広大な土地を得て長谷部氏の親族が吉野里に住みだす

1563年、白鹿城の戦いで隠岐へ逃げのびた松田氏は尼子氏を支えるために、1571年の高瀬城の戦いや1578年の上月城の戦いで奮闘するも敗戦。落人となり、遠い血縁の長谷部氏を頼り吉野里へ

1600年関ケ原の戦い後、長谷部氏の主流は萩へ行くが、高瀬村で百姓となる。1868年三室まで勢力を広げた松田氏が親族の大原氏を招き高瀬村へ


【資料】
1467:船岡山の戦い(山名氏の家臣として長谷部種連死去)
1542:第一次月山富田城の戦い(尼子と大内の戦い)
1551:大寧寺の変(大内氏家来、陶晴賢の謀反)
1555:厳島の戦い(毛利と陶晴賢の戦い)
1563:白鹿城の戦い(毛利と尼子の戦い)
1571:高瀬城の戦い(毛利と尼子の戦い)
1578:上月城の戦い(毛利と尼子の戦い)
1600:関ケ原の戦い(徳川と豊臣の戦い)

【尼子氏資料】
(参考資料「尼子家の「御一家再興」戦争と山中幸盛」)


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