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【19日目】吉野村

ご隠居からのメール:【吉野村】

角川地名大辞典の奥村(中世)に関して「鎌倉中期当村は高瀬村と中奥村とに分れた下って室町の寛正2年・・・・・・」という記述は、あまり信用できない。「分れた」と「下って」との間の句読点が抜けているのは校正不足。「当村」とは 「奥村」のことだと思うが、そうなると、吉野村・高瀬村の他に奥村という地名があることになる。奥村は正式な村の名称ではないと思う。


 「鎌倉中期当村は高瀬村と中奥村とに分れた」という事実を裏書きする別の資料が必要だ。わが家に保存されている『新見庄』という資料には、文永十年(1273)の吉野村の地図が載っており、「秋末」という家の名前が表示されている。鎌倉中期といえば、1222-1287年をさすが、『新見庄』によれば、その頃はまだ吉野村だった。

 いつ、高瀬村という村名が命名されたのか。鎌倉中期ではない。やはり、戦国時代だと思う。あらためて、調べたところによれば、白鹿城(宍道湖南岸)永禄6年(1563年)城主松田満久、毛利勢に攻められ落城高瀬城(宍道湖北岸)元亀2年(1571年)城主米原綱寛、毛利氏に攻められ落城。となっている。

 松田氏が高瀬に落ちてきたのは永禄から元亀の頃だろう。鎌倉時代や江戸時代ではない。米原氏は現在の高瀬には存在しない。


返信:【Re_吉野村】

松田氏は上月城の戦いに参戦していたから、1578年ごろに高瀬へ逃げてきた可能性がたかいね。

■現在の謎
①いつ、長谷部の子孫は吉野里もしくは高瀬に移り住んだのか
②なぜ、長谷部は広い土地を持っているのか
③いつ、吉野里から高瀬に呼び名が変わったのか④いつ、長谷部氏と松田氏は政略婚をしたのか
⑤なぜ、松田は高瀬に逃げてきたのか
⑥なぜ、大原氏は松田氏を頼って三室にきたのか


■諸々
・1180-1186:伯耆・金持・下榎(長谷部信連)
・1222-1287:新見庄
・1524:尼子氏の勢力圏が安芸・備後・備中国にも及ぶ
・1555:厳島の戦い(長谷部元信)
・1563:白鹿城の戦い(松田満久):毛利氏、松田氏を追い白鹿城を占領
・1571:高瀬城の戦い (米原綱寛):城主米原綱寛が降伏、綱寛は新山城へ
・1578:上月城の戦い(尼子勝久):上月城落城、勝久自害、山中幸盛敗死
・1600:関ケ原の戦い(毛利と共に長谷部主流は萩へ)


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