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【275日目】: 乱世を看取った男_山名豊国

ご隠居からのメール:【 乱世を看取った男_山名豊国】

親子兄弟が争うは乱世の常よな、なれど・・・・・・わしは、おまえと争いとうないーー山名祐豊すけとよ(豊国の伯父)

乱世を看取った男は、勝者の側からいえば、徳川家康だが、敗者の側から見れば、山名豊国(禅高)ーーという史観から書かれた歴史小説が吉川永青『乱世を看取った男 山名豊国』である。

かつて日の下六十六州の十一を従えて『六分の一殿』と呼ばれたほどの家柄がずいぶん落ちぶれたものだ。そのことを家康に指摘された山名禅高(豊国)は、「いやはや参りましたな。これまた内府様が仰せのとおり、私も『六分の一殿』ほどではなくとも、せめて『百分の一殿』とは呼ばれたいものです」と言ったという。

禅高は関ケ原の戦の後、家康から六千七百石の所領を下され、家康のお伽衆の一人として生き延び、寛永三年(一六ニ六)、齢七十九で生涯を閉じた。旗本山名氏は江戸時代末期まで存続している。

十五代将軍徳川慶喜同様、はたして人生の成功者なのか、失敗者なのか、よくわからない。

ところで、Wikipediaでみると長高連は、1702年生まれと記載がある。それだと江戸時代の人になるので違う人物のようだ。やはり、Wikipediaで「長氏」をみると、伯耆長氏の一族は但馬国の国人・長氏の支流と考えられており、室町時代の伯耆国人衆の中では唯一、室町幕府奉公衆を務めていた。独立性の高い奉公衆系の武士はしばしば守護と対立することがあったが、伯耆長氏に関しては守護家と比較的良好な関係を維持していたことが文献などで確認されている」という。

さらに、幕末には越前に長谷部甚平じんぺいという英傑がいて、橋本佐内や横井小楠らと親交があった。甚平は能登長氏の系統か、但馬長氏系か、それとも伯耆長氏系か。まぎらわしい。


返信:【 Re_乱世を看取った男_山名豊国】

長谷部甚平は養子のようだね。但馬長氏の流れのようにもみえるが、たしか以前、長谷部甚平が大原氏の刀を明治政府に納めて出展したそうだが、神官の長谷部氏と雅楽の長谷部氏と刀工の長谷部氏がいたのだろうか。

但馬の長氏は、六分の一殿と近しい親戚、わが家で言うと、大澤家や樋山家との関係くらい近しい親戚だった山名家の恩恵をうけていたことは間違いないね。更には、三浦氏や京極氏とも親戚関係だ。鎌倉時代から応仁の乱までは恵まれた一族だったように見えるよ。

それでも、「運の総量は同等」なのだから、時代、時代で七難八苦を乗り越えてきて、その結果、いまのじぶんに良いことが起きているのだろうな。ご先祖様に感謝だ。

年末の今日は、これから友人たちと毎年恒例の一年を振り返る会だ。昔は、箱根の温泉や、熱海の海鮮丼を食べに行っていたが、最近は、車をだすのも面倒なので、今年は、浅草の街で朝から夕方くらいまでお酒を飲む予定だ。

以前とは違い、自由につかえる時間が少なくなってきているが、一緒に遊んでくれる、仲間や、好きなコトを許してくれる家族に心から感謝して、今日も飲んだくれてくるか。可愛げのあるロクデナシだね。


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