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【274日目】: 但馬の長氏

ご隠居からのメール: 【但馬の長氏】

我が家のご先祖には備中西谷村の長牛之介、伯耆の神官長谷部氏、備後の武将長氏の三系統の可能性を想定していたが、第四の系統として但馬の長氏の可能性も考えられることがわかった。

但馬は因幡の隣国で、因幡は伯耆の隣国だ。したがって、伯耆に流された長谷部信連の流れをくむ一分派だと推察することができる。

吉川永青の小説『乱世を看取った男 山名吉高』に長高連という人物が登場する。三含郡、長井城主である。長高連の娘が吉高の側室になり、山名氏に加勢した。つまり、但馬の長氏は山名氏とは縁戚の関係が深い。

それに対して、備後の長氏は、備後守護の山名氏とも但馬守護の山名氏とも縁戚関係がない? 古い権威である京極氏や塩冶氏との縁戚関係はあったかもしれないが、下剋上でなりあがってきた尼子氏や毛利氏とは縁戚関係を結ばなかったのではないか。

この点については、なお調査して確認する必要があるが、但馬の長氏は備後の長氏とは遠い親戚ではあっても、別系統かもしれない。但馬の山名氏は徳川幕府の旗本として存続を許されたが、長氏は加賀前田藩の家老として存続した以外はほぼ歴史の大波にさらわれ、埋没してしまったらしい。


返信:【Re_但馬の長氏】

Wikipediaをみると長高連は、1702年生まれと記載があった。それだと江戸時代の人になるので違う人かな。もし、能登大屋荘の長氏の娘が山名氏の側室になったのであれば、伯耆や備後の長谷部氏と能登の長氏は繋がっていたとも考えられる。

普通に考えて、どっちが本流、庶流といういざこざがあったと考えてもおかしくないとも思う。乱世を生き延びるために互いに支えあっていたと想像するのは、淡い妄想だろうか。

それでも、「家系図」や「尼子の落人」という言い伝えを考えると、長牛之助の系統と考えてよいと思う。どちらにしても、「応仁の乱」を機に、能登の長氏も伯耆の長谷部氏も衰退していったことは間違いないね。

全然違う話しだが、八徳の「忠」の意味が実はよくわからない。なぜ、忠義を尽くすことが、徳につながるのだろうか。この考え自体、上下関係が生じることが前提だ。親孝行の「考」と兄弟を尊敬する「悌」はわかるが、「忠」の主従関係を大切にするのであれば、下克上は起きないのではないだろうか。


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