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【218日目】 ソーシャルディスタンス

ご隠居からのメール:【ソーシャルディスタンス】

長谷部氏にとっては近くて遠い両隣の親戚の松田氏と信谷氏とは、今でいうソーシャル・ディスタンス(社会的距離)をとる間柄だったと思う。顔を合わせれば、礼儀正しく挨拶をかわすが、日常生活ではお互いに深入りはしない。

ただ、そんな風に感じていたのは、自分がひとりぽっちで「浮いている子供」だったからかもしれない。大人たちは、冠婚葬祭や集落の催し事の相談のための寄り合いなどで集まり、交流を深めていたはずだ。

両隣には自分と年恰好が近い子供はいなかった。松田氏には明治大学の学生だったサダトシさん、信谷氏には四歳くらい年上のヒサ子さんがいたが、歳の開きが大きすぎて、日常の遊び友達にはならない。

祖母津弥さんの生まれ年は明治三十一年だと思っていたが、それは友次郎・いし夫妻の養女になった年の誤りで、生まれ年は明治二十六年だった。信谷弥八郎さんとは六歳も年長だから、夫婦になるのは無理かな。

その点、友次郎さんと安次郎さんは、二人とも元治元年生まれだから、仲良しの幼馴染だったのではないかと想像する。


返信:【Re_ソーシャル・ディスタンス】

なるほど、同年代の子どもがいなかったということも関係してるんだね。 とはいえ、信谷家は同じ一族。血族本流と氏族本流の関係で、互いに思うことがあったかもしれない。現代もその流れなら当人同士ではとてもじゃないが、解決できないだろうね。

友次郎さん、安次郎さんの仲がよければ、長谷部の氏と血を残すために協力しているはずだよね。わざわざ、大原氏、松田氏、井上氏から養子をとる必要もない。

弥左衛門さんとふゆさんの確執がやはり、大きいのではないだろうか。現時点の情報だけで推測すると、弥左衛門さんは、前妻のなかさんと結婚するわけだけど、その時点で信谷家の分家が成立している。

破天荒な弥左衛門さんは、與左衛門さんの教え、長谷部家の伝統や「尼子の落人」に反発していたのだろうか。それとも幕末の時代を生きた侍として、徳川幕府の終焉を願い、攘夷を叫んでいたのだろうか。

少なくとも、高瀬や菅生の人たちからすると、日本が開国したことにより「くらし」が貧しくなっている。

そんな時代に長谷部の血を引き継いだ弥左衛門さんが大人しくしていたとは思えない。分家の信谷をつくり、日野のなかさんと結婚し、友次郎さんという息子を授かる。しかし、恋仲で、やがて後妻となるサトさんの弟、喜代太郎さんを養子にとって、家督を譲っているわけだ。

與左衛門さん、ふゆさんからしてみるとたまったもんじゃない。


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