見出し画像

【207日目】DNA解析

ご隠居からのメール:【DNA解析】

われわれのDNA解析をするとして、まず確認するべき歴史的人物は、次の三人だ。

  1. 長谷部信連:以仁王の挙兵_1180・知名度A(30%)

  2. 長元信:厳島の戦_1555、傘連判署名1557、白鹿城の戦_1563・知名度B(10%)

  3. 長牛之助:上月城の戦_1578・知名度C(1μミクロン%)  

金沢の資料によれば、長谷部信連の二代目は朝連だが、朝連のDNAを我々が継承している可能性は薄い。伯耆長谷部氏の二代目は「藤太郎実信」で、母は日吉社の娘=雅楽氏、備後長谷部氏の二代目は金持村の女」との間に生まれた良連。

したがって、われわれのDNA解析をするとすれば、まず実信系か良連系かを確認する必要があるだろう。

備後長谷部氏と伯耆長谷部氏で、今も名前が残っている人物は長谷部元信。元信は両方の家系図に登場しているが、現実にはそんなことはあり得ない。厳密にいえば、実信系と良連系は両立しない。

DNA鑑定をすれば、どちらかが正統かが確定するはずだが、家系図の上では元信は両方の系統に登場している。また、菅生西谷村の大庄屋西谷氏の家系図によれば、長牛之助の曾祖父は長元信だ。これは牛之助の一方的な言い分の伝聞だが、信じるしかない。

長元信の翁山城の継承者は、当然のことながら、上月城の戦では毛利側として戦い、山中鹿之助の率いる尼子再興軍を破った。

長牛之助は新見玄蕃守に従っていたため、尼子側で戦って、武功をあらわし、豊臣秀吉から感状を賜ったと主張した。そこで言い開きができなければ、毛利の回し者、裏切り者として追放されかねないところだった。

牛之助の一族、馬之助は高瀬大原の隠れ里で暮らすことを決断した。隣家には白鹿城攻めのときの宿敵松田氏の裔が移り住んだが、それが何時のことか、今のところわからない。

以上、ファミリーヒストリーの検証には三要素がある。

  1. 科学:DNA鑑定。

  2. 伝聞:信じるか、信じないか。

  3. 推論:史実と合理的な思考に基づく。


返信:【Re_DNA解析】

『続日野町史』には、長元信が1556年、38歳で亡くなったことになっている。すなわち、1563年の白鹿城の戦には参戦していないこととなる。

しかし、『陰徳太平記』では、白鹿城の戦いで楢崎氏と共に300騎駆け抜け、『備後太平記』には、長谷部大蔵左衛門元信が、鞆の浦で開催した上月城の戦勝を労う「猿楽能」に参加し、戦功を得ている。はて、さて、どちらが本当かはわからないが、輝かしい長谷部家の歴史は、元信の死をもって時代の影に潜めることになった。

科学的な検証については、現時点だと難しそうなので、伝聞と推論で話しを構成するしかないね。長牛之助については、『新見市史』に書いてある通りだとして、松田氏のことは、『松江市史』などに掲載があるのだろうか。どちらにしても、都立図書館で調べる必死がありそうだな。

長谷部さかなのファミリーヒストリーは、幼少期から、戦争の被害により母を想い続ける生涯となったね。その分、岡村家のみなさんが、母のない孫のことを、いつも気にしてくれた。

サラリーマン人生を経て、作家として一矢報い、一番の心配事だった子供たちは、何とか幸せに自立することができた。特に、長男と末娘は心配をかけただろう。

しかし、ついには、末娘も一人暮らしをはじめ、浦安の実家には、老夫婦二人きりになってしまった。人生とはそういうもんなんだろう。「何のために生まれ、何のために生きているのか」命や想いを紡いでいくネバーエンディングストーリーだ。


<<<次回の話【より道‐69】戦乱の世に至るまでの日本史_これまでの南北朝問題の整理

前回のメール【206日目】長谷部神社>>>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?