見出し画像

【64日目】幸せな新婚生活

ご隠居からのメール:【幸せな新婚生活】

「本当にきれいなお嫁様」と書簡007には書かれているが、そういえば、昭和二十年か二十一年、食糧難の頃、和服姿の喜久子さんが、突然、高瀬の田舎に現れたことがある。小学校からの下校途上で、「お嫁さんが来た」と友達がさわいでいた。その「お嫁さん」から声をかけられたので恥ずかしかったのを覚えている。

伊丹さんの御両親とは一度、お逢いしたことがある。昭和十四年に帰国した時に與一・貴美子夫婦と面談したが、貴美子さんはまるで原節子のような美人だったというのが伊丹さんのおばあさんの追憶だ。といっても今どきの映画ファンは原節子の出演する映画など見ていないだろうけど・・・・・・。彼女は生涯独身を通した有名な女優だよ。

大同という土地は、風土気候がよくなかったようだ。貴美子さんが死んだのは張家口と戸籍にあるが、短期間のうちに、ハルピンから大同、さらに張家口に引っ越したり、家の改築をしたり、その上に、子育てやお産で忙しく、身体がまいってしまったのだろうね。

與一さんは満州国政府に就職したはずだが、ノモンハン戦争後、東条英機の部隊が蒙古に進出して領土を広げ、満蒙政府をつくった。その頃、大同から張家口に赴任したのではないだろうか。関東軍では東条英機の勢いが強くなり、誰もさからえない。満州国建国の父である石原莞爾も干されてしまった。

 満蒙政府あるいは蒙疆政府についてはあまり知られていないが、ウイキペディアによれば、蒙古聯合自治政府もうこれんごうじちせいふは、1939年に内蒙古(南モンゴル)に樹立された自治政府。首府は張家口。略称は蒙疆。1941年以降は蒙古自治邦政府もうこじちほうせいふと称した。国際的にはたぶん認知されていなかったと思う。野心家やスパイや馬賊などあやしげな連中が暗躍する国境紛争地の最前線で生き残るのは難しい。 

戸籍の上では、中華民国張家口市上東菜園二十三号で貴美さんと早苗さんは亡くなったことになっている。

 伝蔵さんが大学に進学したのは昭和三十年代ではなく、明治三十年代の半ばだ。(認知症になりかけの坊やが明治と書くべきところを昭和と誤記してしまった)。伝蔵さんの経歴は『神郷町史』による。有栖川公園内の中央図書館に開架で閲覧可能だが、わが家にも分家にも保存されていなかった。もしかしたら、子孫に知られたくない事実とされていたのかもしれない。尼子の落人は後世に伝えるべき事実だが、伝えるべきではない事実もある?ーーそのように忖度そんたくして今までこのことはどこにも書かなかった。

素さんの職歴はよくわからないが、東京の小石川で暮らした時期もあるらしい。長男の弘さんはその頃の暮らしをなつかしく思っていた。佐藤信安家への養子縁組に積極的だったのはそれだったかもしれない。貴美子さんが生まれたのは秋田県だそうだ。そういえばDNAとは関係ないけど、秋田美人とよくいわれるね。


返信:【Re_幸せな新婚生活】

貴美子さんは、日本の京都に帰りたかったのだろうね。手紙を読んでそのように感じるよ。満州国政府に就職をしたということは、1935年10月に入籍した輿一さん(24歳)と貴美子さん(21歳)はすぐに哈爾濱に行ったのかもしれないね。そうすると、赴任時期は、哈爾濱建国3年〜7年頃だから諸々インフラは整っていたのだろうか。

手紙には、1939年7月から10月にかけて帰国した4か月間。「夢のような日々」と書いてあったから本当に幸せな時間だったのだろうね。そのときに、伊丹さんと面会したのかな。1939年9月、帰任と同時期にノモハン戦争が起こる。満州国国境維持のため自治政府をつくり、軍事整備を急ぐ東条英機。

11月哈爾濱に戻ると輿一さんは、満州国政府付けから、蒙古聯合自治政府付け異動。大同で仕事がはじまる。自治政府はゼロベースからつくりあげるので、問題は山積み、人手は相当足りなかっただろうな。軍人も厳しく、輿一さんも相当追い詰められていたのだろうか。

ノモハンの敗戦で日本の運命は決まっていたのかもしれない。大同から、張家口は車で2時間ほどだね。写真でみたけど、現在でもかなりの田舎町のようだ。

十月十日の計算をすると、昭和15年2月にはお腹に早苗さんがいる頃。貴美子さんを帯同させるには、少々負担がかかる。単身赴任の選択肢はなかったのかね。そんな会話が輿一さんと貴美子さんの間であったかもね。まぁ、この頃日本に戻ってもかなり危ないとは思うけど。

渋沢栄一は、救世軍を支援していたみたいだね。救世軍というより、山室軍平さんを支援していたそうだよ。


本投稿には、昭和十四年〜十五年にご隠居さまの母であり、自分の祖母である長谷部貴美子さんが、満州国哈爾濱、中国大同及び張家口から京都在住の母との手紙のやり取りを現代語に訳した内容を掲載しておりますが、この「note」掲載の本来の目的は、あくまで、子孫たちへファミリーヒストリーを伝えるための記録として利用させていただいております。手紙の内容は、ご本人のプライバシーを考慮して閲覧制限させていただきますことをご了承いただけますと幸いです。
書簡集(※題名は筆者が命名)

● 書簡001_令和三年(2021年)二月:喜久子(享年102歳)永眠の知らせ
⇒塩田雅子(喜久子:娘)からご隠居(貴美子:息子)への手紙
● 書簡002_令和三年(2021年)二月:叔母様(貴美子)の手紙を送ります
⇒塩田雅子からご隠居への手紙
● 書簡003_昭和十四年(1939年)十一月十六日:新天地到着のご報告
⇒長谷部貴美子(ご隠居:母)から岡村はる(ご隠居:祖母)への手紙
● 書簡004_昭和十四年(1939年)十一月二十日:大同での新生活
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡005_昭和十四年(1939年)十一月二十日:大豆の研究について
⇒長谷部輿一(ご隠居:父)から岡村素(ご隠居:祖父)への手紙
● 書簡006_昭和十五年(1940年)一月六日:新年のごあいさつ
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡007_昭和十五年(1940年)二月一日:幸せな新婚生活
⇒長谷部貴美子から伊丹喜久子(貴美子:妹)への手紙

● 書簡008_昭和十五年(1940年)五月二十七日:悲しみの訃報
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡009_昭和十五年(1940年)六月二十日:日本に帰りたい
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡010_昭和十五年(1940年)六月:里帰り出産
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡011_昭和十五年(1940年)七月:もうすぐ帰ります
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡012_昭和十五年(1940年)八月九日:帰郷中止のお知らせ
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡013_昭和十五年(1940年)九月一日:張家口での新生活
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡014_昭和十四年(1940年)十二月:結婚のお祝い
⇒長谷部貴美子から伊丹喜久子への手紙


ここから先は

986字

¥ 10,000

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?