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【110日目】論語

ご隠居からのメール:【論語】

論語の素読は意味もわからずただ音読を繰り返すという昔風のあらっぽい勉強方法で、文章のリズム感が身体にしみつく。そのせいか、明治時代の日本人の言語能力は高かった。昭和になってからでも、たとえば司馬遼太郎は父親から漢文の素読を習ったという。要するに習慣の問題だろうな。オレ自身も戦後の民主教育で、論語の素読なんかやっていない。日本は戦争で負け、文学でも負けたのだ。

與一さんが、昭和15年8月頃、召集もしくは志願して、国務院実業部から関東軍防疫 (100部隊)に移ったという推理は半ばあたっているかもしれないが、その場合、足手まといになる妻子は内地に帰すのがふつうではないだろうか。また、軍人になってから昭和18年に再婚したというのもわからない。もしかしたら、諜報活動に専念していることを世に知られたくないための偽装かなとも思ったが、イギリス軍ならともかく、あの頃の関東軍が偽装させてまでの諜報活動をさせることを考えただろうか?

100部隊の存在もはっきり知らなかったので、これからできれば調べてみる。好奇心を抱いたら事実かどうかを調べるーーこれは作家の基本であるが、作家の業(ごう)というべきかもしれない。


返信:【Re_論語】

たしかに、軍隊に入隊したら、いつ命を亡くすかわからないだろうから、家族は内地に行かせると判断するかもね。張家口に到着した貴美子さんの手紙にも「家のない農業科の人が下宿し困っている」と嘆いでいたので、国務院実業部として、軍に出向していたのかもしれない。

それよりも、はるさんが、貴美子さん、早苗さんの遺骨と文孝さんを迎えにきた後、ひとり、張家口に残った與一さんのことを考えると、半ばヤケクソになって、関東軍に志願したのかもしれないね。

昭和15年から、18年までの約3年間は、軍の仕事に精を出し、妻と娘を殺した戦争やソ連、匪賊に対して、行き場のない怒りをぶつけていたのかもしれない。昭和18年の結婚は、素さんの意向が強かったのではないだろうか。長谷部家、すなわち菊二さんの元に赤紙が届いたことで、日南、日野郡の菫子さんとの見合いを急ぎ、祝言をあげる。

祝言には、與一さんの一時帰国のタイミングにあわせることが出来て、與一さんも参列する。その際に、義父である素さんも菊二さんの祝言に参列した。そして孫と久しぶりの再会を果たす。張家口の苦労話や関東軍の話。日本帝国の現状など国家機密などあったと思うが、満州国や蒙古聯合自治政府にパイプのある與一さんから積もる話をたくさんしただろう。

その時に、素さんから、輿一さんに新しい妻を迎えたらどうだという話になったのではないだろうか。昭和18年、日本国内はかなりキツイ雰囲気が漂っていたはず。連合軍の反攻が本格化し召集や勤労動員が拡大している。山本五十六も亡くなっているしね。明治時代の富国強兵、「産めよ増やせよ」じゃないが、長谷部家として、岡村家として、子孫を残すと判断をしていてもおかしくない。

祝言の場でそんな話になれば、いしさんや、勝治郎さん、津弥さんも賛同するだろう。最初は、妹さんの百合子さんとの縁談の話しになっていたが、百合子さんには中根さんという恋仲の人がいたため、親戚の文子さんを紹介し祝言をあげた。

菊二さんが菫子さんと入籍したのは、昭和18年4月12日、輿一さんが文子さんと入籍したのは、昭和18年5月11日。わずか、1ヶ月で兄弟が入籍するにはそれなりに理由があるはず。


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