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■【より道‐42】百姓から武士になった偉人_山田方谷

百姓から武士になった人で有名な偉人といえば、渋沢栄一さんだが、実はもうひとり武士になった人がいる。それが、山田方谷やまだほうこくさん。自分の祖父・與一さんは、山田方谷さんの研究をしていたそうで、自分の父であるご隠居さまも「方谷入門塾」という随筆を書き下ろした。

読んでみると、自分たちのファミリーヒストリーとつながる方だとわかったので、随筆「方谷入門塾」を「息子へ紡ぐ物語」に掲載しようと思ったが、膨大な文字を転記しないといけないので断念した。そこで、ごくわずかだが一部概要をまとめて記載することにした。


【経済人_山田方谷】

山田方向は、司馬遼太郎の小説「峠」に度々登場する人物で、1805年(文明二年)備中松山藩西方村、現在の岡山県高梁市中井町西方で生まれました。

5歳になると、新見藩の儒学者である丸川松隠まるかわしょういんのもとで学び。20歳で士分に取立てられると、藩主板倉勝静いたくらかつきよの家臣として藩政に参加したそうです。板倉勝静は松平定信の孫であり、元をたどれば徳川吉宗の玄孫にあたります。そのため、幕府に対する忠誠心が高く、勝静自身も様々な幕府の要職を務めていたそうです。

しかし、幕府の要職を担うことで、藩財政のひっ迫を招き、1849年(嘉永二年)頃には、東海道の籠かきからも「貧乏板倉」とあざけ笑われるほどだったそうです。借財は、約十万両。その年に藩の大蔵大臣である元締めに就任したのが山田方谷になります。

山田方向は、「義を明らかにして利を計らず」の考え方、ようは、「人義、正義を明らかにすれば、利益は後からついてくる」という、重箱の隅を楊枝でほじくるような小言の対策ではなく、大局的立場にたった考えを推進する「理財論」を唱えて改革を進め、債務返済期限の延長や鉄山と銅山の開発、紙幣刷新などの施策を実施して、八年後にはすべての借財を返済したうえに十万両の余剰金を残したそうです。

山田方谷の「理財論」は後に、二松学舎を通して渋沢栄一を初めとする関係者たちに伝えられ、日本の財界に深い影響を与えることになったと言われています。


【陽明学者_山田方谷】

陽明学ようめいがくは、明の時代に、王陽明がおこした儒教の考え方、哲学です。「心の学問」と言えばわかりやすいと思いますが、偏差値38の高校を卒業した自分の頭では、なかなか理解することができません。

それでも、なんとか調べてみると、陽明学とは、心と体は一体であるという「心即理しんそくり」や、知識があっても行動しなければ意味がないという「知行合ーちこうごういつ」。性善説を唱える「致良知ちりょうち」というものがあるようです。

山田方谷は、新見藩の儒学者である丸川松隠まるかわしょういんのもとで学んでいますので「論語」や「徳」の考えが基礎にあり、座右の銘は、「至誠惻怛しせいそくだつ」 「まごころと、いたみ悲しむ心があれば、やさしくなれる。目上には誠を尽くし、目下には慈しみをもって接し、このような心の持ち方をすれば物事をうまく運ぶことができ、この気持ちで生きることが人としての基本であり、正しい道である。」という、八つの徳目の考えに則しています。

恐らくですが、江戸幕末の攘夷は、この「陽明学」をもとに吉田松陰や西郷隆盛が学び実行したものだと思います。山田方谷も陽明学者として「心」を大切に財政改革をしていきました。それが、渋沢栄一の「論語と算盤」につながったのだなと思います。


【ご先祖さま_山田方谷】

では、なぜ、祖父と父が山田方谷の研究をしたのか。それは、ご先祖さまの謎をひもとくヒントになるからです。

岡山県新見市哲多郡菅生村で、庄屋をしていた西谷幾三郎さんの娘さんは、太田辰五郎さんという大経営者に嫁いだと言われていますが、西谷家と山田家は親戚関係になります。そして、西谷家の家系図によると、ご先祖様は、「平家物語」に登場する長谷部信連だと明記されていました。

長谷部信連は、我々のご先祖様、氏祖といわれている方になりますので、2022年1月から放映されている「鎌倉殿と13人」の時代に活躍した人物になります。どのような方か、簡単に記しますと、平家が日本を制していた頃、後白河法皇の息子、以仁王もちひとおうが、平氏討伐計画を企てますが、その策略が平氏側に知られてしまいます。そこで、以仁王もちひとおうを庇い、逃がしたのが、長谷部信連と言われています。

信連は、以仁王のかわりに平氏に捕まり、伯耆日野の地に追放されますが、その伯耆日野の地が、祖父や、ご隠居さまの実家、岡山県高瀬村の山を越えた隣村になります。源平合戦で勝利すると、源頼朝は、長谷部信連を呼び戻し、源氏の世の立役者として能登大屋荘を与えました。現在の石川県能登半島ですね。ですので、我々は、中国山地に残された長谷部信連の末裔ということになります。

そして、西谷氏の家系図には、長谷部信連の子孫、長丑之助ちょううしのすけの名がありました。長丑之助は、羽柴秀吉に仕え、1578年(天正六年)上月城の戦いで無比類の働きをし、武功をのこしたため、刀一腰と備中菅生の西谷領を与えられ、以後、西谷を名乗るようになったと記載があります。

あくまで、歴史の話しではありますが、山田方谷を調べることによって、わが家の家訓として云い伝えであった「尼子の落人」の辻褄がようやくあいました。いままで歴史を調べると、どうも理屈が通らなかったことがあったのです。

長谷部信連の子孫と呼ばれている、長谷部元信は、毛利元就と交わした「から傘連判状」に名が残る人で、1555年(天文二十四年)の「厳島の戦い」で毛利側として武功をあげている人です。もともとは、尼子氏に属していたそうですが、毛利氏に寝返り、備後国、翁山城の城主になったと記録が残っています。

すると、「尼子の落人」という理屈が通らなくなってしまうのです。しかし、長丑之助が、1578年(天正六年)の尼子再興軍として山中鹿之助たちと共に毛利氏と戦い、その論功で西谷村を知行したのであれば、「尼子の落人」の理屈が通るわけです。

下剋上が当たり前の戦国時代では、家を守り生き抜くことが大変だったと思いますが、何代ものご先祖さまが命をかけて大切にしてきた、長谷部の名を大切にしたいなと思った次第です。

名こそ惜しけれ。


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