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■【より道‐32】大清帝国の蜃気楼_日清・日露が残すもの②

ファミリーヒストリーを調べながらも日本史を学ぶという取組は、なかなか良い勉強方法だなと思っていたけど、まさか、世界史にたどり着くとは思いもよらなかった。今後の人生でアメリカ独立戦争の経緯やイギリスの植民地政策についても学ぶ機会があるかもしれないが、いまは、引き続き大清帝国の歴史を整理するとしよう。

大清帝国は、満州人が、満州(満族)、明(漢族)、モンゴル(蒙族)、チベット(蔵族)、新疆ウィグル(ウィグル族)を制したことで。5族(正確には55族)が共に過ごす多民族国家となった。

この文章だけで、ふたつのことを思い浮かべてしまう。ひとつは、新疆ウィグル問題。コロナパンデミックが起こると、アメリカとイギリスは、中国の新疆ウィグルに対するジェノサイドを非難した。そして米英可豪は2022年開催予定の北京オリンピック外交ボイコットを発表した。

もうひとつは、1932年に建国された日本の傀儡国家、満州国の5族共和政策。このときは、「日本」「満州」「中国」「朝鮮」「モンゴル」の民族共存、五族共和のワンダーランド、王道楽土のスローガンをたて、1938年(昭和十三年)近衞文麿首相は「新東亜新秩序の建設」アジアの多民族で手をとりあう新たな秩序をつくると世界に発信した。これは、まるで大清帝国の政策を模倣しているようにもみえる。

大清帝国の歴史をしらべることで、いま、世界で起きてることは、歴史でつながっていることがわかってくる。なにが良くて、なにが間違ってるかなんてわからないけど、少なくとも「新疆ウィグル」は大清帝国の一部族だった。美人で有名なウィグル人は皇后にもなっている。

いま現在も歴史は刻まれているのだから、ちゃんと物事の本質を理解して冷静に判断する必用がある。再び亡国の危機に瀕するわけにはいかない。令和の名に込められた願いが叶うことを信じて。


【日清戦争の軌跡】
大清帝国は、1856年(安政三年)に勃発した第二次アヘン戦争の敗戦でイギリス、フランス、アメリカに領土を侵略されました。すると隣国のロシアや日本も便乗して大清帝国への侵略をはじめます。

1858年(安政五年)ロシアは大清帝国と「アイグン条約」を締結することで樺太やウラジオストック一帯の外満州まで領地を拡げました。当時は、ロシア軍艦をアムール川に入れて銃砲を乱射し『調印しなければ武力で満州人を追い出すぞ』と脅迫したそうです。これでアムール川が大清帝国とロシアの国境となりました。

一方、日本は1871年(明治四年)宮古島の漁師が台湾に漂流し殺害されるという事件が発生すると、この事件をきっかけに琉球王国が日本の領地だということを国際的に認めてもらうことに成功します。その方法は、「国民を殺害した台湾に報復することで、琉球の民は日本国民だという既成事実をつくることでした。

日本の「台湾出兵」には、諸外国から批判されながらもイギリスが仲介に入り終息します。その内容は、日本が殺された漂流民のために攻撃したことを大清帝国が認めたからでと言われています。これは、大清帝国が「琉球民」は「日本国民」であることを公に認めたということです。そして、1879年(明治十二年)には廃藩置県のながれから琉球王国は沖縄県に設定されました。

イギリスやフランスも大清帝国に従属している国々を奪いとります。1884年(明治十七年)にベトナムの宗主権そうしゅけん、いわゆる他国が内政や外交を管理する権利をめぐる「清仏戦争」が勃発。フランスが領土領有目的を達成しました。翌年の1885年(明治十八年)英緬戦争えいめんせんそうで、ビルマ(ミャンマー)はイギリス領になります。大清帝国の従属国だった、タイ王国だけはフランス領とイギリス領に挟まれていたので緩衝国として独立が許されたそうです。

日本の話に戻しましょう。衰退しきった大清帝国を横断して一年中凍らない港を手に入れようと南下してくるロシアを日本は恐れていました。そこで、大清帝国最後の属国、朝鮮を独立させて緩衝国にすることを目論み1884年(明治十七年)にクーデター甲申政変こうしんせいへんを援助します。これは、朝鮮の独立派が親清派の一掃を図り王宮を占拠した革命でしたが、3日間で清軍に制圧され失敗しました。

従属国を失いたくない大清帝国、宗主国から解放されたい朝鮮独立派、ロシアの侵略を防ぎたい日本の思惑が重なり、1894年(明治27年)巡洋戦「浪速」艦長・東郷平八郎がイギリス船を撃沈させて日清戦争が勃発します。

イギリス船には清国兵1100名が乗船しており、船長以下イギリス人乗員は清国兵に脅迫されていたそうです。清国兵は刀剣をぬき、銃を構えている状況となったので、東郷平八郎は「危険」を示す国際信号旗掲げるとしばらく猶予を与えますが、やがて「撃沈します」と命令をだし砲撃を開始しました。直前に海に飛び込んだイギリス人船長と乗組員は救助され、多くの清軍兵士は死亡しました。この一連の対応は、国際法に則った処置でした。

その5日後、1894年(明治二十七年)8月1日に両国は、戦線布告しました。日本と朝鮮は盟約を交わし戦争目的を「朝鮮の独立のためのもの」とすると、朝鮮は日本軍の移動や物資の調達などを支援し、出兵もして協力体制を築くことになりました。そして日本軍は勝利を重ねていきます。

朝鮮にいる清軍を制圧する頃、日本国内では広島に明治天皇が移り住み大本営が設置されました。これは、日本の首都が広島にったという歴史的な事柄です。国会も広島で開催されたので、伊藤博文やら元勲も移り住んだのではないでしょうか。

それでは、何故、広島が臨時首都となったかというと広島には船艦が出航できる港があり、農産物も豊富で最新の缶詰工場もある。統帥権のある天皇陛下に移り住んでいただく事で軍事決定が速やかに行えるということでした。ただ、個人的には、長州藩主、毛利氏が関ヶ原の戦いで追い出された故郷広島に軍事基地を築くことで毛利の威厳を示したのではないかとも思っています。

日清戦争は、日本海軍が黄海・海上を制圧しました。陸軍は山県有朋司令官のもと、平壌、遼東半島にある難攻不落の旅順港、山東半島の威海衛いかいえいを攻略し、首都北京目前まで日本軍が攻め込むと清軍は敗北を認めました。

日清戦争は、多くの国が「清国の勝利だろう」と思われていましたが終わってみれば、日本の快勝。それは、近代化した日本軍の方が、武器や艦隊が優れていたからだと言われています。その後の講和条約で「 清国は朝鮮の独立を認める」「遼東半島りょうとうはんとうと台湾・澎湖諸島ほうこしょとうを日本へ渡す」 「賠償金は2億両」「4ヶ所の港を開く」ことを約束しました。

しかし、条約の内容が明らかになると遼東半島を狙っていたロシアがこれに猛反発。 ロシアの意見に同調するフランスとドイツを誘って「遼東半島を清国に返還するように」と日本を脅してきました。これが「三国干渉」です。 日清戦争で精一杯だった日本は、ロシアとの戦いを避けるため遼東半島を清国に返還するという苦渋の決断をします。この遺恨が10年後の日露戦争開戦につながっていくことになります。


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