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【267日目】:家族無用論

ご隠居からのメール:【家族無用論】

「人間の運の生涯数量」と「痩せ我慢の哲学」で思い出したのは、自分の息子が働いている結婚式場で自分の娘が結婚式をあげることが決まったときだ。

父親にとっては、まことに晴れがましい幸運な祝い事なので、つい口をすべらせてトオルさんに告げたら、「自分にはなんのかかわりのないことだ」と彼はポツリと言った。友人ではあっても、親戚づきあいはしていないから、その通りにはちがいない。これも家族とは何かを考える上では参考になる材料になりそうだ。

トオルさんが「自分にはかかわりのないことだ」と言った意図は、ゲスのかんぐりによれば、「家族無用論」だ。「あっしにはかかわりのないことでござんす」という木枯紋次郎のセリフにも通じる。「家庭の幸福は諸悪の根源」という太宰治のセリフにも。

いずれも「息子へ紡ぐ物語」としてファミリーヒストリーを考える人の発想とはかけ離れている。それでも、「自分は、何故生まれ、何のために生まれてきたのか」と言う問いとはかかわりがあるような気がする。

その意味からは「痩我慢の説」は「我に七難八苦を与えたまえ」と近い考え方かもしれない。

しかし、家族無用論ではやはり長生きはできないと思う。痩せ我慢をはって「我に七難八苦を与えたまえ」と月に祈っても、家族無用論では八十二歳まで長生きはできないだろう。長生きをしてもいいことばかりではないが、ほんとうに困ったときに助けてくれるのはやはり家族だ。


返信:【Re_家族無用論】

家族無用論か。じぶんは自分勝手に生きてきたけど、壁にぶつかるごとに家族に救われてきた。万引きしたときも、ケンカして郵便局のバイトをクビになったときも、人生に迷ったときも、毎回助けてもらってきた。

「いちばんいい死に時を仏さまが選んでくださる」なら、「いちばんいい家族を仏さまが選んでくださる」と考えてもいいのではないだろうか。

例えば、與左衛門さんは二百年経った現代でも偉人とされているが、息子の弥左衛門さんは破天荒なイメージだ。偉人の與左衛門さんも、破天荒な弥左衛門さんも、お互いがお互いを必要として人生を成し遂げた。

じぶんの妻は、「私は男の子ふたりを育てる器量がない。だから、私は息子と娘を授かったんだと思う」と言っていた。一方で男の子しか生まれない家庭は、男の子を育てられる度量があるのだろう。晶子姉ちゃんは、子供三人を育てる器があった。

そう考えると、養子は難しい。基本、血縁者が養子になるのだろうけど、伝蔵さんのように、籍を入れた家のくらしに合わない人は合わないだろう。家族無用論を唱えてもおかしくないよ。

あと、夫婦二人きりで生き抜くというのも難しい。やはり、親族がつながることで家族と呼ばれるものになるのだろう。


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