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■【より道‐45】日本の敗戦と満州国の辿る道

敗戦後の日本は、マッカーサーを総督とするGHQが日本を占領し、日本国再興の道を示しました。自分たちが知ってる限りでは、「焼け野原の東京」「戦争孤児」「闇市」「Give Me Chocolate 」「東京極東裁判」。戦争を推奨した指導者たちはその責任を負い罰せられました。

なんとなくでは、ありますが知っています。子供たちに、自分が過ごして学んだ戦争の話し昭和の話しはちゃんとできると思います。でも、ファミリーヒストリーを通じて知りたいのは、お祖父ちゃんはどのようにして敗戦を経験して実家である岡山県新見市神郷町高瀬に帰ることができたのかです。「玉音放送」または、「ポツダム宣言」受諾直後に何が起きたのか。そのようなことが気になります。


【ヤルタ会談】

満州国は、1939年(昭和十四年)の「ノモンハン戦争」に敗戦してから、ソ連軍による侵攻に備えるために兵力を増強をしました。しかし、1941年(昭和十六年)日本とソ連は、相互不可侵や一方が第三国と交戦した場合の中立を定める「日ソ中立条約」が結ぶことになり、ドイツはヨーロッパ、日本は南進に兵力を集中させることにしました。

すると、主力部隊は、太平洋戦争の主戦場に引き抜かれていきます。残った部隊は、匪賊の討伐や訓練に明け暮れる日々が続いていたそうです。しかし、アメリカのB‐29戦闘機が中華民国に配備されると、満州国内の軍需工場を爆撃されるようになり、空襲で多くの民間人が犠牲になったそうです。

もちろん、満州国軍にも飛行部隊はあったそうですが、日本から譲り受けた型の古い戦闘機だったため、到底歯が立たなかったそうです。そのため、蘭花特別特攻隊らんかとくべつとっこうたいが編成され、B-29への特攻作戦が実行されたそうです。

1945年2月クリミア自治区にあるヤルタ近郊で、米英ソの3首脳(米はルーズベルト。英はチャーチル。ソはスターリン)が集まり、戦後の世界秩序の体制について話し合いがされました。この時、アメリカのルーズベルトは、スターリンに樺太と千鳥列島をソ連領として容認することを条件に対日参戦するように提案します。そして、ソ連は「ドイツ降伏後3ヶ月で日本に宣戦布告する」ことを秘密裏に約束しました。

しかし、ルーズベルト大統領がヤルタ会談の2ヶ月後に亡くなってしまいます。すると後任は同じ民主党のトルーマン大統領になりました。トルーマン大統領は、反共産主義の観点からソ連が対日参戦する前に日本を降伏させる必要があると考えたのです。これが、広島と長崎に原子爆弾を落とされた理由だそうです。

原爆で多くの人が死ぬよりも、日本が共産主義になる方が困る。もっというと、日本が共産主義になって、将来第三次世界大戦に発展したら困るということですよね。ものすごい話です。

ちなみに、ドイツが降伏したのは、1945年5月9日です。ソ連は、きっちり3ヶ月後の8月9日に対日参戦してきたのです。なので、北方領土4島については、アメリカもソ連(現ロシア)に対して抗議をしないわけですね。

トルーマン大統領の理屈は、なんとなく正論のように聞こえますが、だったら、なぜ、8月7日に原爆を投下したのでしょう。1か月前だったら、ダメだったのでしょうか。ポツダム宣言が7月26日ですからそれだけ日本が背水の陣で粘っていたということでしょうか。

では、ルーズベルト大統領は、なぜソ連に対日参戦を提案したのでしょう。ヤルタ会談では、今後の世界秩序について話し合いをしているわけですから、日本とドイツの敗戦は決定事項です。

だとしたら、ソ連に対日参戦を提案する必要は全くないのです。原爆投下の理屈もデタラメに思えてしまいます。冷静に考えればアメリカの自作自演なわけですね。日本の終戦間際に起きたことは、列強国の領土侵略と原爆の人体実験だったと言われても仕方がありません。

でも、そこまでしないと日本国と満州国は全面降伏しなかったのかもしれません。なにせ、十死零生の特攻で対抗したわけですから。やはり、「過ぎたるは猶のこと及ばざるごとし」ですね。


【敗戦後の満州国】

1945年8月8日23時、ソ連は対日宣戦布告を行い、8月9日0時より一斉侵攻を開始しました。ソ連軍は、実に157万人の兵力を終結させて、それこそ、東は哈爾濱はるぴん、北はモンゴル、西はウラジオスト方面の三方向から凄まじい勢いで侵攻していったそうです。

対する日本軍は、15歳以上から60歳未満の男子及び女子を戦闘員として徴用する「根こそぎ動員」などで徴用した開拓民含め約70万人で要塞を守り日本人居留民を避難させるための遅滞戦闘を行いました。

満州国に在留している日本人は、約150万人。開拓民団には若い男性は全員徴兵されていますから、このとき高齢者、女性、児童が約20万人いたそうです。軍人は約70万人ですから、残りの約60万人が政府大使館、満鉄関係者、軍人の家族ということでしょうか。

ソ連軍が侵攻してきてから2日後の8月11日夜1時から2時間ごとに特別列車をだして朝鮮に向かったそうですが、列車には4万人ほどしか乗れなかったそうです。では、他の人たちは、どうやって逃げたのでしょうか。

ソ連軍は退避した人々の群れをみると、機関銃で殲滅したそうです。また、中国の農民たちも積年の恨みを晴らすべく、在留邦人を襲撃、虐殺して衣服までも奪い取ったと言われています。戦車でひき殺されたという話しや、生き残った子供達も拉致され売り飛ばされたという話しも聞きました。そして、日本人の婦女たちは自決の道を選んだとも言われています。

「南京大虐殺」も「ソ連対日抗戦」も同じなわけです。おそらく、これが、何千年も前から続く、人間の戦争というものなんだと思います。

軍人8万人、民間人8万人が亡くなったそうです。また、60万人がソ連軍に捕まりシベリアに抑留され、強制収容所では共産主義の教育をうけたそうです。中国に取り残された子供達は、「中国残留孤児」として中国人に育てられた方たちもいるそうです。 

一方、中国人や朝鮮人は、日本からの支配解放に喜び、ソ連軍の進駐を群衆があつまって歓迎しました。それだけ、虐げられていたのでしょう。それもそのはずです。日本人は「国家総動員法」でひもじい生活をしていたわけですから、日本人に差別されていた中国人や朝鮮人はもっと悲惨な状況だったでしょう。

8月15日に日本が降伏すると、溥儀ふぎは8月18日に満州国皇帝の退位と国家の消滅を宣言して満州国建国13年の幕が閉じられました。その後、溥儀一行は奉天から飛行機で日本国へ亡命しようとしたところ、ソ連軍に捕らえられ強制収容所へ連行されました。戦争が終わったことは本当に良かったことだと思います。

ご隠居に終戦時の記憶をたどってもらいましたが定かではないようです。6歳のことなので覚えていなくて当然です。ただ、「玉音放送」を実家の高瀬村で聞いたと言っていたので、8月15日より前に日本に帰国していたことになります。敗戦の情報を入手して先に帰国したのか、すでに内地に戻り仕事をしていたのかわかりませんが、ソ連軍の侵攻にあうまえに帰国したのでしょう。

祖父は、戦争の話しは一切しなかったそうです。それでも、我々のファミリーヒストリーは戦争が起きたことで運命が大きくかわりました。良くも悪くも現代の私たちが存在しているは、ご先祖さまたちが子孫のために、日本民族のために命がけで戦ってくれたからです。現代の平和に感謝です。


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