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【175日目】都立中央図書館

ご隠居からのメール:【都立中央図書館】

都立中央図書館に電話で問い合わせたところ、電話かWEBによる予約制で、一日に先着100人が入館できるそうだ。時間帯は午前10時から午後1時までの三時間でよいだろう。自分の予約がとれたら、至急連絡してくれ。オレもただちに当日の図書館と浅草寺の予約をとる。

平日休みの日を調整できるなら、午後は浅草寺にまわって、一周忌の法要に参列することができる。今秋はコロナも終息しそうもないので、子供たちをふくめた法要は来年3月の花見頃でよいと思う。その頃になっても、パンデミックはどうなっているかわからないが。
 
長谷部元信の系統が日野長谷部系となっているのは、『日野郡史』であり、『上下町史』ではそうなっていなかったように記憶しているので、その点の確認が今回の調査の目的の一つ。


>>「白鹿城の戦」1562年(永禄五年)または、「月山冨田城の戦」1566年
>>(永禄九年)に敗れた松田氏は、敵方ではあったが、元尼子家臣(正確
>>には京極氏、塩冶氏)の親族長谷部元信を頼った。元信は、実家の隣村
>>である高瀬大原(実際には長谷部信連から続く山林)の秋末名、重久名
>>を追い出し、松田氏の帰農を許した。

ーーいつ、なぜ、どういう経緯で、松田氏が長谷部氏を頼ったのかわからない。ここは状況証拠をもとに推理するだけだが、結果的には落人の松田氏に侵入者の長谷部氏の一族が加担し、協力しあうかたちになっている。。

>>長谷部元信亡きあと尼子再興軍が発起し、長谷部一族は毛利派と尼子派>>の対立が生まれた。一部の長谷部氏は山名氏や日野氏と共に尼子再興軍
>>に呼応する。「上月城の戦」1578年(天正六年)で敗れたご先祖様は、
>>高瀬大原の地で帰農することを上下長谷部氏に許される

ーーこの辺の推理も検証が必要だと思う。上下の長氏は何時頃まで権力を維持することができたのだろうか。高瀬大原の地で帰農する頃には上下長氏は落ち目になっていて、「帰農を許す」ほどの権力が残っていたという印象がとぼしい。やはり落ち目ではあったが、新見氏の落人と手を結ぶか、あるいは新見氏が長氏のふりをしたのではないかと妄想が広がる。

関長門守せきながとのかみ黒坂くろさか城主で、滅亡した。新見藩の関氏とは別系統だ。


>>亀三おじさんが神郷町長の副議長になって、長谷部家の面子は保てたのかな。

ーーそう思うが、町長にはなれなかった。人気はあったかもしれないが、政治家としては與一さんのほうがカリスマ的権威があった。ただし、商売のセンスはない。興一さんの息子は長男がサラリーマンで、もっぱら事務系の仕事に従事、次男は高校の先生で、これまた商売気なし。孫の代になって、やっと商売気が出てきたが、取引や運用面でやはり甘さが出ている。

 山田方谷や渋沢栄一と比べると、たしかに、資本主義に乗り遅れている家系だと思う。そのハンデをおぎない、因果の網の目をくぐりぬけながら、生きていかなければならない。


返信:【Re_都立中央図書館】

九月のスケジュールは少々時間をください。休みが取れたら、浅草寺と都立図書館に行きましょう。

「日野郡史」と「上下町史」では、「家系図」の系統が違うのか。面白い。日野長谷部氏は、長谷部元信を批判しているのに「長谷部館」にある顕彰碑には、長谷部元信の名が記されていた。

一方、縁をきられた上下長谷部氏は、「家系図」から消すほど、日野長谷部氏のことを腹ただしく思っていたのだろうか。日野と上下の対立は、両系統とも、子孫が生き残っているので、それでよしだとは個人的に思うけどね。

松田氏と長谷部氏の関係は、松田氏と京極氏、塩冶氏の関係をひもとけば、少し見えてくるかもしれない。でも、1336年(延元元年)に長谷部氏は、上下に進出しているので、松田氏の白鹿城とは、距離的に結構離れている。

上下長谷部氏と上下新見氏は、「からかさ連判状」に署名する同志で、翁山城と小堀三間城は距離にして5キロほどの間柄だが、長谷部氏は、元信が亡くなってから急激にチカラを失っていったように見える。

1600年(慶長五年)の「関ヶ原の戦」まで持ちこたえられず、1591年(天正十九年)の山城廃止令で秀吉に城も取りあげられている様子がうかがえるよ。

ただ、1566年(永禄九年)「月山冨田城の戦」くらいまでならギリギリ長谷部元信の影響力があったかもしれないね。上下新見氏は、1577年(天正五年)からはじまる豊臣秀吉の中国侵攻に対抗して1580年(天正八年)の「鳥取城の戦」では、名がでてくるほど活躍して毛利氏から信頼を得ている。

1566年(永禄九年)「月山冨田城の戦」で敗れた尼子氏の滅亡により、新見氏は、尼子氏に奪われた新見荘に戻ることを許されたと仮定すると、このときに、上下の小堀三間城時代に世話になった長谷部氏の願い(秋末名、重久名を追い出し。松田氏を帰農させる)を聞いてあげたのかもしれない。

もしくは、尼子再興軍が「上月城の戦」で敗れた1578年(天正六年)のときに手を差しのべたのかもしれないね。


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