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【112日目】ヒストリーはストーリー

ご隠居からのメール:【ヒストリーはストーリー】

英語のhistoryからhiをとれば、storyになる。古事記や日本書紀の昔から歴史は物語だ。それはもっぱら権力者が都合のいいようにつくったPRのようなものだが、民主主義の世の中では庶民も自分の都合に合わせた物語で対抗することはできる。ただし、その物語にはなるべく真実に近い迫真のリアリティがもとめられる。

昭和17年8月3日、見田守登さんが戦死して、福栄村で村葬が行われた。これは歴史的事実だ。山を越えた高瀬村で村葬が行われたという話は聞いたことがないが、見田家とゆかりのあるイシさんや守登さんの姉のツネさんも参列した可能性が高い。

翌年の昭和18年11月にはゆみこさんが生まれた。昭和18年1月には菊二さん、菫子まさこさんのふたりは、お付き合いしていただろうかーー戦時下でもあり、今の若者のようなお付き合いは考えられない。4月の入籍といっても、それは戸籍上のことであって、実際の結婚式の時期はもっと早かったのではないか。

文子さんは入籍後、張家口に行っている。オレもかすかながら記憶がある。昭和19年に二人で帰国するとき、乗替駅のプラットフォームのベルに急がされて、走っているうちに、靴が脱げ、なくしたまったこと、釜山の親戚の家に泊めてもらったとき、きれいな蒲団にオネショをして叱られたこと。パオズという肉まんじゅうがおいしかったことなど。帰国後はしばらく神戸にいて、それから高瀬に帰った。

関東軍に入隊しているのに家族を持てるというのはふつうでは考えられないが、秘密部隊ならありえない話ではない。もしかしたら、最初から最後まで 秘密部隊所属で、関東軍に従軍してはいないのかもしれない。戦争ではなんでもありだろう。

原敬の伝記を読んでいたら、明治十八年、天津の領事から帰国する途中、張家口から北京へ向かっている。張家口は国境の辺鄙な町というイメージだったが、それほど辺鄙な町ではないことがこの事実からわかる。


返信:【Re_ヒストリーはストーリー】

1943年(昭和18年)までは、蒙彊家畜防疫處の活動している記事が存在するが、1944年、1945年に活動している形跡をいまのところ探し当てられてない。張家口の蒙彊銀行で働いていた人の戦争体験記事を読むと「昭和18年に嫁をもらうために内地へ一度戻った」と記載があった。

1941年には、「人口政策要綱案」が閣議決定、そして、「一家庭に平均5児を一億目指し大和民族の進軍」と新聞で推測してるので、昭和18年に蒙古聯合自治政府から、民間の独身男性に結婚を促す命令が出たんじゃないかなと思う。

また、他の人の戦争体験記事をみると、張家口では、阿片が普通の家庭のタンスに入っていて、敗戦時、タンスの阿片を持って逃げだし、途中売ることで日本に帰れたと証言してる記載があった。その人は、昭和21年1月に日本へ帰国できたそうだ。

與一さんは、昭和18年に文子さんと結婚するまでは、政府の人間として、蒙彊家畜防疫處で働き、その後、関東軍軍馬防疫廠(100部隊)に吸収されたかな。

毎朝戦争しに出勤して自宅に帰宅するなんて、おかしな話しだもんね。文子さんと文孝さんが、内地に帰ってから、関東軍に入隊したと考える方が自然のような気もするね。


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