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【145日目】からかさ連判状

ご隠居からのメール:【からかさ連判状】

うかつながら、小堀三間城が矢野荘にあるとは知らなかった。だとすると、長(長谷部)元信が矢野荘を貰ったのは何時だろう。また。誰から貰ったのだろう。

1557年(弘治三年)の「からかさ連判状」に長元信と新見元致をふくむ備後国人十八人が連署しているのは我ながら大発見だったと自負している。長氏と新見氏とのつながりをはっきりと証明する動かぬ証拠だからだ。『新見市史』と『上下町史』の両方に目配りしなければ、この事実には気がつかない。

>長谷部氏は、京極氏と親戚関係なのに尼子氏から離れたのは、なぜだろう。

毛利元就の謀略のチカラだとはいえるね。逆にいえば、山名宗全や尼子晴久に人望がなかったということになる。

長氏と新見氏は毛利のために武功をあげたが、それほど厚遇されたとは思えない。逆に、伯耆の長谷部氏からは大倉山の鬼の逸話のように、征服者であるとともに裏切り者として批判されている。

新見元致の子孫は、新見に戻った後、あまりいい目にあわず、没落していく。帰農した牛之助や馬之助の子孫が細々と生き延びることができたのが、せめてもの慰めだ。

上下の長氏は俳諧で遊ぶ余裕があったが、高瀬の長谷部氏は酒を飲むだけで、俳諧などには関心を抱かなかったようだ。

新見氏が矢野庄にある小堀三間城主として、「からかさ連判状」に署名し ているということは、新見氏は、備中新見藩を離れ、長氏と連携していたことになるね。


返信:【Re_からかさ連判状】

矢野庄の領地は、長谷部信連が備後の検非違使となったときからの領地とだったのではないだろうか。そもそも、関東御家人として能登の大庄屋として領地を賜っているのに、遠く離れた備後の検非違使の役目があることがおかしいと思っていたが、山名氏の親族で領地を賜っていたと解釈すれば合点がいく。備後や伯耆に家族がいたのだろうね。

毛利元就は、尼子氏から寝返った山名氏に人質を出すように要求していたらしい。また、寝返った国人たちを戦の最前線に配置したとも言われている。

長谷部氏も毛利からの圧力を受けて、不遇に耐えたのだろうか。また、元信が翁山に山城を築城したのは、尼子氏の侵略を警戒したから。そこまでして、新興勢力の毛利氏につき、尼子氏を裏切る必要があった。

尼子晴久は、どんな不義理をしたのだろうか。京極氏の正室に入った元信の叔母は、なにを思っただろう。もしかしたら人質として京極家に嫁いだかもしれないけどね。

余談だが、信長の妹、お市と浅井長政の子、初は、京極家に嫁いでいる。秀吉が尼子氏を厚遇していたのは、そのような背景もあったのかな。

とはいえ、山名氏は尼子再興軍に呼応したが、長谷部元信は同行しなかった。長谷信連の本家、三浦一族から500年以上の長い間、同族、血族である山名氏を見かぎって、それでも毛利氏についたのだ。戦国の世で生き延びたのはすごいことだね。


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