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【182日目】菩提寺

ご隠居からのメール:【 菩提寺ぼだいじ

>>ご先祖さまが毛利の武将だと疑う根拠に「菩提寺」も入れといて。

ーー了解!大倉山の鬼の逸話を書いた長谷部絢光あやみつの視点からすると、菩提寺はたしかに重要なポイントだ。氷室神社はよいが、八幡神社や曹洞宗高林寺はよくないというのが、日本古来の神道の思想にあるとは、それまで気がつかなかった。。

柚木脇治恵さんによれば、八幡神社を氷室神社に合祀(?)するという話も出ているが、ご神体が違いすぎて難しいのではなかろうか。

松田氏のことも聞いた。当主の大助さんは岡山でレントゲン技師をしているそうだ。年齢は40歳位。時々帰っているという。また、自分は十代目だと言っていたというが、それでは尼子の落人にならない。信谷清巳さんが五代目だとすると、十代前は江戸中期だ。フユさんと善右衛門さん夫妻は約百五十年前の人と推測される。

写真を見ると、信谷家の墓地にはおよそ十基の墓がある。百五十年前からで十基なら、白鹿城の落城は四百五十年前だから、松田氏の墓地には三十基くらいの墓がなければならない。長谷部の墓地には、文字のない石の墓を含めれば三十基くらいはあるだろう。

それで、こんどは松田氏の墓地にどれほどの数の墓があるか調べてくれと頼んでおいた。十五基程度なら松田大助さんはたしかに十代目かもしれないが、江戸時代は土地の売買は認められなかったはずだ。

もし、松田大助さんが十代目だとすれば、考え方をあらためなければならない。やはり、長谷部氏のほうが先に1578年(天正六年)頃にやってきて尼子の落人と称していたところへ、江戸中期になってほんものの尼子の落人があらわれたというストーリーかな? それはそれで面白いストーリーだが。

それにしても、松田氏はそれまでどこにいたのかという疑問も浮かんでくる。高瀬には他に松田氏が4-5軒あるから、その内の一軒が移ってきたのかもしれない。いずれにしても、謎が増えた。


返信:【Re_菩提寺】

松田大助さんが十代目なら、友次郎さんの六代目と合致する。友次郎⇒勝治郎⇒與一⇒現当主⇒後継当主。長谷部家の後継当主も丁度十代目だ。

長谷部家には享保年代の墓があることも考えると、1730年頃に長谷部氏と松田氏は、別の地、例えば、菅生や日野のから高瀬の地に越してきたという可能性があるのではないだろうか。

その場合、辻褄が合わないのは、長谷部元信が追い出した鬼の伝説(1560年頃想定)から約180年のあいだは、誰があの地に定住していたのかということになる。

もしかしたら、秋末氏、重久氏の一族が江戸中期までいたが、お家断続となり、代官から声でもかけられて空いている土地を安住の地にしたのかという想像もしてみた。

高瀬の地にいる他の松田氏は、氷室神社の氏子として代々高瀬の地にいたというから、別の松田さんだと思うけどね。長谷部と松田の二つの一族のみ八幡神社の氏子だったというのは、高瀬村のなかでも浮いてる存在の印象を受けるよ。


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