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【199日目】浅草寺・過去帳

ご隠居からのメール:【浅草寺・過去帳】

昨日はおつかれさま。おれもすこしくたびれた。浅草は遠い。形ばかりでも、徹さんとの約束をはたすことができてよかった。長谷部氏の先祖代々霊位については、帰宅したら、広島の弟から、過去帳が送られてきたので、偶然の一致に驚いている。

メール交換の件、オレも内心にたまっていたコンプレックスをはきだしていることを自覚している。息子に対する甘えと大目に見てほしい。所詮、オレは大人物ではない。

過去帳からは、御先祖の謎はほとんど解明されていないが、いちばん古いものが、

金風妙露信女 享保十九年(1734年)寅 七月二十八日

続いて、

帰心道入禅定門 享保二十年(1735年)卯 三月二十日

となっていることは確認できた。男性を初代とすれば、帰心道入禅定門だが、現在のオレの心境にもひびきあう、素晴らしい戒名だと思う。

信谷さんのことは手紙には何も書いていないが、これについてはもう何も問い合わせはしないことにする。


ご隠居からのメール:【 Re_浅草寺・過去帳】

昨晩は、お疲れ様でした。都立図書館での調査方法や浅草寺の流れもわかったので、とても学びある時間でした。考えてみたら、父さんと2人で飲んだことがあるのも、数える程度のような気がする。

昔、大井競馬場に一緒に行った時と、昨年の鎌倉での寿司屋、浅草の路端居酒屋か。残りの人生の過ごし方として息子に心情を色々吐き出してもらえれば、自分は、人生の教訓になる。まさに、息子に紡ぐ物語になるね。

過去帳の件、よかったね。おじさんもちゃんと約束を守ってくれている。ありがたいね。

しかし、一番古いご先祖さまは、やはり、1700年頃に西谷から高瀬村へ越した可能性が高くなってきたんじゃないかね。西谷と名乗ったのは長丑之助の後に相続した人だし、長谷部の名を残すために、新見同藩の高瀬大原に土地を持った。理由は、長谷部信連が住んでいた伯耆日野と山林つながる、土地だったからだろう。


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