【134日目】尼子の落人伝説
ご隠居からのメール:【 尼子の落人伝説】
広島という土地を訪れて尼子の落人伝説を思い浮かべ、長谷部家が尼子の落人として尼子の再興、毛利に対する遺恨を代々引き継ぐ家だったとしたら1945年8月6日にその考えも終焉を迎えてしまっただろうと思った由ーーそれも宿命だな。
尼子の再興をはかるにしても、河本大作、石原莞爾、辻政信らが描いた作戦のシナリオに従っていたのでは勝ち目はない。
国家安全保障会議(NSC)でインド太平洋調整官を務めるキャンベル氏は「台湾独立を支持しない」と言明したが、麻生太郎副総理は7月5日、「台湾で大きな問題が起きれば、間違いなく存立危機事態に関係してくる」と集団的自衛権の可能性に言及した。盧溝橋事件の日は7月7日だ。米国にそそのかされて日本人が「最初の一発」を中国に向けて発射するようなバカに権力を与えてはいけない。
そもそも尼子の伝説をひろめたのは誰だろう。おれは與左衞門さんに注目している。古墓地に対して新墓地をつくり、自らその一番目の墓に入ったし、三女のふゆを分家して、信谷善右衛門家を創設した。その二つの行動に尼子の落人伝説がからまっていたのではないだろうか。
與左衞門さんの一字をもらった與一さんが尼子の落人伝説の終焉を身にしみて感じたのは、最晩年、息子たちが誰も後継者として家をつがないことがはっきりした時だろう。ぐでんぐでんに酔っぱらって、そのことに対する嘆きを大声でわめいていたことがある。
返信:【Re_尼子の落人伝説】
尼子の伝説は、與左衛門さんというより、代々長谷部家に語り継がれてきたことなのではないかと思っているけど。それこそ、松田さんに聞いたら何か知ってるんじゃないかね。
自分の推理は、長谷部信連の代から高瀬は、長谷部の隠里として存在していた。1566年の月山富田城の戦いに敗れた落人となった尼子遺臣の松田氏を隠れ里である高瀬に受け入れ、帰農し生活することを許可した。
他の尼子遺臣たちは、亀井茲矩に庇護され大山を越えた高瀬の隣村日野郡で農民として生活をしていた。そこで松田氏や他の尼子遺臣たちは氏を存続させるために婚姻関係を結びつづける。
24年後の1600年。関ヶ原の敗戦後に長谷部も翁山を離れ帰農した。毛利についていかなかったのは、今までの待遇に加え萩についていっても減俸となるということ、隠里にいる尼子遺臣の存在が大きかった。
徳川幕府になったとしてても再び武士に返り咲く機会を伺い、尼子遺臣である松田氏と親戚関係になる。その後、尼子子孫と婚姻関係を結び、悲願を叶えることが長谷部家に代々伝わる家訓となった。
輿左衛門さんが生まれたのは、恐らく1800年頃。江戸幕府が開かれて200年経っている。長谷部家に代々語り継がれてきた歴史も、かなり薄まってきているはず。ただ、信谷家を分家し墓と家を新しくしたのであれば、長谷部氏の言い伝えを後世に残す意思があったはずだよね。
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