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白露まで 5.五寸釘-2

夢の中で私は知らない街の交差点にいた。これは夢だとはっきりわかった。私の五感は全てが鋭くなっていた。今いる場所から見える全ての人の顔つきや髪の色、持ち物等全てが細部まで目に付く。人がすれ違う度にその人の香水や整髪料、化粧の匂いが鼻につき、話している声が耳が割れるほど大きく聞こえ、空気を通じて、そこにいる人が食べているものや、交差点の周りにある飲食店の出す食品の味が全て交じって口の中で感じる。人が動くことで生じる空気の動きが身体中に刺さって痛みが走った。

私は耐えきれず膝をつき、吐き出しそうになるが、腹の中には何も無く、えずくだけになってしまう。何度もこみ上げてくる吐き気を耐えながら、交差点から離れようと歩き出す。
目を閉じ耳を塞ぎながらよろよろと歩いて、ようやく人気のない細道にたどり着いた。道の端に座り、息を整える。途中から座ることも辛くなり、道路に寝転んだ。

遠くから男女の話し声が聞こえる。また人か、とうんざりした気持ちで目を開けて体を起こすと、私が歩いてきた方と逆側の方向から、兄さんが少女と歩いてきた。
「ダメだよ。これは私が譲り受けたものだ。それにこれで試したいこともある」
「……じゃあ、交換ならどうですか」
その言葉に兄さんは立ち止まる。少女の手には古い封筒が握られていた。
「それは?」
「○○です。人の感覚を遠ざけます。地獄の苦痛も耐えられるそうです」
兄さんは少女の手から封筒を受け取り、中身を覗いてしばらく考えていた。
「君の家はこれがないと……」
「良いんです。さっき話した通り、うちは、わたしが最後ですから。……最後にしますから」
兄さんは少女の目をじっと見つめた。少女の目は潤んでいたが、強い意思を感じる。
「仕方がない。「他人には」使うなよ」
「はい、必ず。よそ様には迷惑かけません」
兄さんは持っていた黒いバッグから鈍色に光る長い金属を取りだした。

目が覚めると全身に汗をかいていた。息も荒く、身体中が熱い。起き上がりベッドを見ると、私が寝ていた周りに大きく汗のシミができている。喉が渇ききっている。水を飲みに行こうと立ち上がると、視界が回転し床に倒れ込んだ。
何とか気力で這ってキッチンまで行き、冷蔵庫からペットボトルの水を取りだした。よく冷えた水は体に染み渡り、冷静さを取り戻しつつあった。

「おはよう。酷い顔だね。美男が形無しだ」
「……何故こうなったか、聞きたいみたいですね」
次の日、私が昨晩の事を怒りに任せて兄さんに話した。兄さんは途中思い出したような顔をしたあと、目を細めて口を緩ませながら私の話を聞いていて、それがまた私の琴線に触れた。
「いやあ、ごめんね。それは酷い目にあったね。君が夢で見た通り、彼女から御札を貰ったんだ。ポケットに入れていたのをすっかり忘れていたよ」
「御札……ですか」
「君の手を煩わせた、洗濯機の中の紙だよ」

「彼女の家は代々呪術師を生業にしてきたんだ。依頼人は喜んだだろうけど、それ以上に彼女の家の周りには非難を浴びせる人ばかりになった。彼女が呪術師になることを断ったことで、彼女の家族も彼女を傷つけた。傷つき疲れた彼女は、呪術師の道を選んだ。「呪術師になる」という呪いを断ち切るために」
少女は一家を呪い殺して自分も死のうと、兄さんから五寸釘を貰おうとしていたそうだ。その引換えに、例の御札を差し出したのだ。
「人を呪わば穴二つ、と言うだろ。彼女の家の人間は必ず地獄に落ちる。その痛みを少しでも和らげようと、その御札があったみたいだ」
効果はあったんだね、と兄さんは笑いながら言った。
「私が、人間が、何日も着た服が匂わないわけないじゃないか!それに、ああそうだ、あのバッグを持っている時はフラフラと道を歩くことが多かった。車がクラクションを鳴らしてるのにも気が付かずね。ま、良かったじゃないか、君は私の異臭に辛い思いをしなくて済んだんだから」
少女の最後の切り札の御札が消臭剤代わりになってしまった。また、それも私が洗濯してしまった。2つの衝撃的な事実に目眩がしていると、兄さんは言った。
「安心してくれ。彼女は今も生きていている。実家から離れた地方で暮らしているそうだ。私が渡した五寸釘も、彼女がそう思っただけで、ただの工具だよ」

管理室のインターホンが鳴る。昨日から泊まっている客が、この辺の観光スポットを教えて欲しいとの事だった。その会話に兄さんが割って入った。
「私でよければ、案内しましょう。弟は少し体調が優れないみたいで」

私は管理室のパソコンの前に座り、電源をつけた。窓から兄さんと女性客が話しながら歩いているのが見える。
もし、兄さんが持っていたのがただの工具だとしても、釘を1本だけ持つことなんてあるだろうか?もし違うとしたら、兄さんの話が全て嘘になってしまう。これ以上考えないよう、私は青い顔のままパソコンの画面に集中した。

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