バ美肉おじさんについての雑感 その1


はじめに

 ここではバ美肉おじさんについてとりとめもなく考えた事を書こうと思います。

バ美肉おじさんと女性扱い

バ美肉おじさんを女性扱いする事の是非

 バ美肉おじさんを女性扱いする事は彼女達にとって良い事なのでしょうか?それが彼女達の目指すべき、目指したい事なのでしょうか?(ここで言及する「バ美肉おじさん」は性別違和以外をバ美肉の理由としたバ美肉おじさん。ここで言及する「女性扱いの女性」は生物学的な女性)

 個人的にはそうは思いません。

 個人的にそう考えた理由を書こうと思います。 

理由1 バ美肉おじさんは女性の模倣ではないから

 バ美肉おじさんは二次元美少女に受肉しているのであり、生物学的女性をモデルにした姿に受肉しているのではありません。

 そもそも、二次元美少女は生物学的女性とは体型も顔も違いますし、スペックも戦闘美少女のようにホモ・サピエンス以上のものを付与する事ができます。

 違うものを同じカテゴリーに入れる訳にはいかないのがその理由です。

理由2 女性扱いをバ美肉の目的にする事自体の問題

 もし、バ美肉おじさんになる目的が女性扱いですと、おじさんのままで女性準ずる扱いを受けられるようになれば、バ美肉する必要がなくなってしまいます。

 このようにバ美肉を手段にする事は、目的がバ美肉以外で果たせれば、バ美肉する意義を失いかねないのがその理由です。

理由3 バ美肉おじさん的な表象を女性に押し付ける事になるから

 バ美肉おじさんを女性扱いする事を良い事を捉える世界観はバ美肉おじさんと女性を同じカテゴリに分類、同一視する世界観です。

 その世界観はバ美肉おじさん的な役割を拒む女性にその役割を押し付け、傷付けることになります。

 バ美肉は素晴らしいからこそ、そんな事で人を傷付ける道具してはいけないと考えたのがその理由です。

理由4 そもそも、そこに差別的構造があるから

 そもそも、バ美肉おじさんに女性扱いという話が浮上するのは、「立派な大の男が立派ではないかわいい二次元美少女姿でいてはいけないが、女子供は立派ではないから許される」という世間に女性差別、二次元美少女差別的な構造があるからです。

 バ美肉おじさんが女性扱いされるより、その差別構造を打倒する方が重要だと思いました。それがバ美肉おじさんを女性扱いする事が良い事ではないと個人的に考える理由です。

バ美肉おじさんの正体とバ美肉の効果

バ美肉おじさんは何になろうとしているのか

 バ美肉おじさんが女性の模倣でないとするとバ美肉おじさんはバ美肉する事で何になろうとしているのでしょうか?

 トートロジーになりますが、個人的にはなりたい好きな姿になろうとしていると思います。

 多く老若男女が美少女の姿になるのは、美少女の姿をなりたい好きな姿と考える人が多く、それが人類にとって普遍的な感性である事が分かります。その感性を正当化する為にバ美肉する為の理屈を後付けしていると思います。

バ美肉おじさんになる事で生じる副次的効果その1

 バ美肉おじさんになる事で生じる副次的効果は第一に自分のなりたい姿、かわいい姿になる事でそんな自分を守りたくなる事です。

 また、そんな自分を長期的な視点で守る為に相手の事を思いやる気持ちも芽生えます。

 逆に言えば、おじさんは現実からなりたく姿、醜い姿を不本意に押し付けられる事でそんな自分を愛せなくなり、自分を粗末に扱い、人間は自分以上に相手を愛せないから、相手にも粗末に扱ってしまうと思います。

 そう考えると、バ美肉する事でそんな悲劇を回避できるので、自他ともにプラスになる事象だと思います。

バ美肉おじさんになる事で生じる副次的効果その2

 第二に自分のなりたい姿、かわいい姿になる事で自撮りがしたくなります。それは自分に対して自分の感情を伴った視線を向ける事になるので、自分が好きな存在にどんな視線を浴びせているのか確認できる事です。

 その事によって、好きな存在にどんな視線を浴びせれば良いのか身を持って知る事になり、自分の為にもハラスメントする事を防ぐ事ができます。(例えば、有害な視線を好きな存在に浴びせれば、自分も浴びる事なり、それを防ぐ為にはその視線を止めるか、自分がなりたい姿である事を止めるかの二択なります。なりたい自分とは好きな存在との距離を縮めて0にした挙げ句に好きな存在そのものになったと考えるなら、前者より後者の方が個人的には好きな存在との距離を縮めているから自分の欲望に忠実で選択する人が多いと思います)

おわりに

 これでバ美肉おじさんについての雑感は終わります。続きも書くかもしれません。

 


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