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日月神示す神仕組み令和の日本と世界 第一章 天皇とは何か

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・日本はどこまでも天皇を中心とした国

天皇は日本国憲法においては「日本国の象徴」です。学校で教えていないことの「日本雛形論」でいうと、世界の中心は日本であり、天皇だそうです。天皇がなくなれば日本はなくなる。世界のあらゆる人々にとって中心となる”核”のような存在が天皇です。



・日月神示に頻出する「てんし様」の記述

実際日月神示には「天皇(テンノウ)」という言葉は全巻を通してわずか2ヵ所しか出てこない。「神武天皇(じんむ)」の記述のみです。
戦前までは「テンノウ」ではなく「てんし(天子)様」という言葉では頻出しています。

一部のみ抜粋すると

「神の国の臣民は神の申すようにして、天地を掃除して、てんし様に奉らなならん御役ぞ」
「一にも神、二にも神、三にも神ぞ。一にもてんし様、二にもてんし様、三にもてんし様ぞ」…

筋金入りの日月神示信奉者でも天皇と皇室に対してネガティブな印象を持つ人も少なくありません。そういう人がいう「てんし」は「天使」の意味であり、宇宙に遍満する「言霊」のエネルギーと解釈する人もいます。




・「てんし様」と「天皇」との違い

日月神示には「てんし様」=「天皇」と解釈できない部分もあります。てんし様が現在の天皇より次元の高い存在として書かれています。

日月神示本文「てんし様は生き通しになるぞ、御玉体(おからだ)のままに神界に入られ、またこの世に出られるようになるぞ、死のないてんし様になるのぞ、それには今のような臣民のやり方ではならんぞ、今のやり方はてんし様に罪ばかりお着せしているのざから、
このくらい不忠なことないぞ、それでもてんし様はお赦しになり、位までつけて下さるのぞ、このことよく改心して、一時も早く忠義の臣民となってくれよ」

生きながらにして神界に入ったり、この世に現れたりして死を超越した存在とあるので、これは今の天皇を指しているとは言えない意見があっても
おかしくはありません。

日月神示本文:「元津(もとつ)大神、心の中で唱え奉り、スメラミコト唱え、次に声高く天津日嗣皇尊大神唱え、天の日月の大神唱えまつれ」

これから言えることは、現在の天皇はあくまで肉体次元の天皇としての天皇であり、霊的な存在としての天皇としての「天津日嗣皇尊(大神)」があると解釈できます。両者が一体化した状態が本来の「てんし様」のあるべき姿ということでしょう。

「てんし様」とは日本だけの天皇ではなく、世界全体を治める天皇「世界天皇」だということです。世界天皇が全世界を一つに丸めて治める世こそ、「ミロクの世」なのです。

今の世の中では「天皇」を唯物的にしか見ていません。天皇とは血統として二千数百年続く世界最古の家柄だから尊いということでなく、霊的な観点から重要性を理解する必要があります。

明治以降の神社神道は霊的解釈を欠落させてしまったところに根本的な問題があり、それが日月神示を出現させる要因となりました。そこを見直すことにならない限り、天皇が「てんし様」に昇華することはありえないでしょう。

日月神示本文:「神が世界の王になる、てんし様とわからん臣民ばかり」

これが降りたのは昭和19年(1944)6月10日、岡本天命が麻賀神社に始めて参拝した時。日本が天皇を大元帥に立てて戦争の真っ最中だった時です。
「てんし様が神とわからん臣民ばかり」と神様が嘆いていたとのことです。

日月神示本文:「神が臣民の心の中に宝いけておいたのに、悪に負けて汚してしもうて、それで不足申していることに気づかんか。一にも金、二にも金と申して、人が難儀しようが我さえよければよいと申しているでないか。それはまだよいのぞ、神の面かぶりて口先きばかりで神様神様、てんし様てんし様と申したり、頭下げたりしているが、こんな臣民一人もいらんぞ、いざという時は尻に帆かけて逃げ出す者ばかりぞ、犬猫は正直でよいぞ、こんな臣民は今度は気の毒ながらお出直しぞ」

このような神様からの訴えに耳を傾け、国民一丸となって天皇の霊的意義を知り、正しい奉戴した時、初めて天皇は霊体一致の「てんし様」に昇華し、
世界天皇として立たれます。




・神武天皇が即位したのは何年のことか

西暦2019年は皇紀でいうと2679年だそうです。皇紀は神武天皇が即位した紀元前660年から始まっています。学説では神武天皇と第十代・崇神(すじん)天皇を同一視する勢力が有力です。

紀元前660年は縄文時代晩期か、弥生時代前期にあたります。この時期に神武天皇が即位したという裏付ける証拠は有りません。

『日本書記』あと江戸前期の『日本長歴』で神武天皇が即位したのは「辛酉(かのととり)の年だと記されており、現在の太陽暦(グレゴリア暦)に直すと2月11日になり、明治時代に入った後、この日を「建国記念日」と定めたとのことです。

『日本書記』でいう「辛酉の年」が紀元前660年になるのは、明治時代の歴史学者「那珂通世(なかみちよ」によって指摘されたことです。彼がいうには神武即位をこの年に定めたのは、中国の前漢から後漢に流行した「讖緯(しんい)説」によるそうです。

中国では古来「辛酉(しんゆう)の年には革命が起こる」という易学思想があります。干支は60年で一巡しますが、この周期は「一元」もしくは「一運」という単位で呼ばれ、この21倍の1260年に一度巡ってくる「辛酉」の年には、国家を揺るがす大きな革命変革が起こるというのです。

この思想に基づき、推古天皇9年、西暦601年の辛酉の年から1260年遡った紀元前660年の元旦(太陽暦では2月11日)を、神武天皇即位の日としたわけです。

ですが、これに科学的根拠はありません




・天皇の歴史は2千数百年どころではない

神代の時代からの日本の成り立ちの歴史を記した文献は『古事記』と『日本書紀』が知られており、正史とも言われています。二つ合わせて「記紀」とも言われます。

「記紀」ではいずれも神武天皇を初代天皇として記されており、神武よりずっと前から日本にはスメラミコトがいたのだとする古文献が他にもあります。

「古史古伝」と呼ばれるものとして、『上記(うえつふみ)』、『竹内文書』、『富士文献(宮下文書)』、『九鬼文書』、「古史古伝」と呼ばれるものとして、『上記(うえつふみ)』、『竹内文書』、『富士文献(宮下文書)』、『九鬼文書』、『秀真伝(ほつまつたえ)』などが有名です。

これらの文献資料は、いずれもアカデミズムからは偽書か偽詩とされており、正規の研究対象とはされていません。これらは正規の研究対象として取り上げ、価値を見直そうと試みると学会から白眼視され、社会的生命まで絶たれる可能性があります。

一方、戦後の歴史の研究の中で、古史古伝に偽書の烙印が押されるに至ったのはそれなりの理由があることもまた事実です。

古史古伝にはサンカなどの先住民や、物部氏(もののべ)や出雲系の氏族など、時の支配者に屈する形になった人たちや、抑圧された先住民の主張が盛り込まれていることが多く、その伝承自体は軽視するものでもないしょう。

古史古伝をひもといてみると、天皇歴史が「神武天皇の即位」から始まったのではなく、はるか以前の太古から天皇、あるいはスメラミコトは存在していたことを伝えています。神武朝が始まる前には「ウガヤフキアエズ朝」という王朝が長い間存在していたそうです。

記紀神話によると天孫降臨したニニギノミコトとコノハノミコトとの間に3人の御子が生まれました。『古事記』では最初にホデリノミコト、次にホスセリノミコト、最後にホロリノミコト(ヒコホホノミコト)が生まれたとし、『日本書記』本文では最初にホノスソリ(ホスセリ)ノミコト、次にヒコホホデミノミコト、最後にホアカリノミコトが生まれたとあります。

そのうちの一柱であるヒコホホノミコトがトヨタマヒメをめとって生まれた子が、ウガヤフキアエズノミコトです。
ウガヤフキアエズノミコトはトヨタマヒメの妹、タマヨリヒメをめとり、二神の間にはイワレヒコ、後の神武天皇が生まれたとしています。

古史古伝では、このウガヤフキアエズについて異なる伝承を伝えています。ウガヤフキアエズは一代ではなく、数十代も続いたというのです。

『上記』『竹内文書』『九鬼文書』では七十三代も続いたとしていたり、『富士文献』では五十一代続いたとしています。
仮に一代平均20年だとした場合、神武天皇以前に1440年間の「ウガヤフキアエズ朝」があったというわけになります。

記記神話でも、神武天皇(イワレヒコ)が大和に入った時、すでにそこにはニギハヤノミコトという天孫が先にいて、この地を治めていたことを認めています。ニギハヤノミコトは物部氏の祖神であり、その伝承については「記紀」ではなく、物部氏の史書である『久慈本紀(くじほんぎ)(旧事紀くじき)』などをあたらない限りわかりません。




・モーゼの墓を訪れていたマッカーサー

数ある古史古伝の中でも最も信憑性が薄いとされているのが『竹内文書(竹内文献)』です。『竹内文書』では日本が人類発祥の地であり、モーゼやイエス、ブッダにマホメットら、世界の代表的宗教を創始する指導者たちは、日本に渡来して研鑽(けんさん)を積んでからそれぞれの地に帰って教えを説いたのだ、としています。

超古代の昔は世界が「万国天皇」によって一つに治められていた、「天の浮船」に乗って世界各地を巡幸したなどが書かれています。そこに記された歴史が創作されたものだと結論づけると、日本の超古代に隠された真実を覆いつくしてしまうかもしれません。

ここに一つのエピソードがあります。終戦直後に連合軍最高司令部(GHQ)の総司令官ダグラス・マッカーサーは厚木基地に降り立つと、旧海軍将校の親睦会だった水交社にフリーメーソン東京ロッジを設立しました。
マッカーサーはメーソンの最高位である「第33階級」であったことはよく知られた事実です。

マッカーサーはロッジ設立時に石川県の宝達山(ほうだつざん)も訪れました。宝達山にはモーゼが晩年日本に来て死去し、この地に葬られたという伝承があり、実際に※「墓」まで存在します。

モーゼの墓の参考資料


べブライ人の祖であり、ユダヤ教の始祖でもあるモーゼの墓が日本にあるというのは、『竹内文書』史観に通じる異伝であり、当然日本の学者たちは相手にしていません。
マッカーサーがなぜ「モーゼの墓」へ訪れたのか。これが『竹内文書』に記された超古代史観の信憑性を示しているのではないのでしょうか。

米国の研究機関では、白眼視されることなく『竹内文書』などの古史古伝は英訳されていると聞きます。マッカーサーはあらかじめ情報を聞かされているからこその訪問だったのでしょう。

また、マッカーサーは昭和天皇とアメリカ大使館で会見した際、昭和天皇を丁寧に扱ったといいます。
これは昭和天皇が「自分の命はどうなってもよいから、国民を助けてほしい」と述べたことにマッカーサーが深い感銘を受けたからだと言われています。

この時、昭和天皇は三種の神器のひとつと言われている八咫鏡(やたのかがみ)をマッカーサーに見せたとそうです。
八咫鏡の裏には「われは在りて在るものなり」という意味の古代ヘブライ語が刻まれているという噂があります。その文字を実際に見た人もいたことを私(著者)は知っています。

「われは在りて在るものなり」…この言葉はモーゼがシナイ山で神に合った際に、その御名を問うたところ、神から答え給うたと伝えられる言葉だそうです。荒唐無稽な話だと思われますが、こうした物証を見せられたマッカーサーは昭和天皇の真摯な人柄に対してだけでなく、日本の天皇家がユダヤ王家の血筋でもあることを認めて感服したからなのではないでしょうか。




・『竹内文書』にみる「世界再統一」の神勅

『竹内文書』の皇国史観は戦前の一部の有料者の間で支持を集めていたことがあり、その中に当時の政治家や学者、軍関係者、皇族がいました。「日本ピラミッド起源説」を唱えた酒井勝軍(かつとき)や、出口王仁朗の”影の参謀”と言われた元海軍人の矢野祐太郎は、自説を構築する上でとくにその影響を受けた人物だと言われています。

『竹内文書』には万国天皇がやがて時至れば再び地上に現れ、世界を統一するという予言があるといいます。編集に関わった高坂和導氏がいうには、竹内家の資料を整理しているうちにこの予言を知り、同著の中にこの項目を含めたそうです。

私は北茨城にある皇祖皇大神宮に参拝した時に『神代の万国史』を入手し、その中に「世界再統一の神勅」という欄があり、こんな予言があったのかと興味を抱き、1993年に刊行した自著の中でこの予言を紹介しました。すると高坂氏から「この予言を入れたのは僕なんだよ!」と連絡を頂きました。「世界再統一の神勅」の内容は次のようなものです

***


超最古の神代の昔、日本の天皇は万国の棟梁(とうりょう)として世界を統治していた。天皇即位の大礼祭には白人・赤人・青人・黄人の”五色人”の各王が参朝していた。

やがて世の中の秩序は乱れ、やりたい放題の「自在の時代」へと移り変わり、年月が経つにつれて世界各国は日本天皇の統率していた規範から離れ、各国が思うままに行うようになった。

日本列島でも大地震が起き、文化覆滅(ふくめつ)するに至ったため、日本天皇はやむなく世界統一の一時放棄を余儀なくされた。

この「自在の時代」が終わり、再び宇宙法則に遵守した「限定の時代」となれば、日本が世界再統一するであろうと…必ずその時が来ることが、神勅により申し伝われてあった…。


***

ここに示された「世界再統一」に関する神勅が最初に下ったのが不合朝第五九代(ふきあえず)・天地明玉主照天皇(あめついあかりたまぬしてる)と
糸玉(いとたま)皇后の時です。この五九代天皇即位92年と93年に、天皇と皇后が神懸かり状態になり、以下の神勅を述べたそうです。

「今より先代年、分国(あぢちく)ノ天皇氏デキルゾ。統一する時来るぞ。六千三百六十五年より、万国五色人の天皇氏大変起こり、五色人天皇氏統一代ぞ。いよいよもって、万国五色人再統一する代ぞ」

つまり。これから先の代、6365年後に天皇に大きな変化が起こるが、その時こそ天皇が世界の5色人類を再び統一する時と言うのです。

この時に生まれてくる皇祖皇大神宮の神主が「神人大統領」であり、ある地形図紋のようなアザを左股に持っているとし、その神主が生まれる代こそ、天皇が世界を再統一する時だと記されています。

さらに同天皇即位267年、糸玉皇后が神懸かりとなり、先代6100年後に「万国地図紋」を左股に持つ神主が生まれ、その国こそ万国統一の棟梁国である、とする同じような信託があったと記されています。
それ以後も同天皇即位357年に3回似たような神示が降りているとのことです。




・「日本天皇が世界を統一する」は作為だったのか

『竹内文書』には不合朝第七三代狭野尊天日嗣天皇(さのおのみことあめひつぎてんのう)は、後に名を改め、この天皇が神倭(かむやまと)朝第一代・神武天皇となったことが記されており、この時も皇后に神勅が降りたと記録されています。

それによると、「国危うく、天皇が危うい」事態になると「天皇氏は必ず世界を統一する」ということになるというのです。

仮にこの予言が本当だとすると、神武天皇即位6100年後に当てはめると西暦1932年(昭和7年)になり、予言は外れたことになります。

これは『竹内文書』を編集した竹内巨麿(きよまろ)が当時の不穏な国内・国際情勢に合わせ、日本の天皇が世界の盟主として立つことになった説を確立するために、この予言を創り上げ書き直したのではないかとも言われています。

昭和初期(4,5年頃)は『竹内文書』の支持者に構成された「天津教」が全盛期の時期で、一万数千人を超える信奉者を有しており、日本の天皇が世界を治める時が来たという高揚した気分が広まっていたといいます。

現に、古史古伝の影響を受けた論客の一人の増田正雄という人物がおり、
彼は昭和18年12月の『猶太(ゆだや)研究』誌上で、「我天皇が地球大変動以前迄は事実に於て世界を統治賜ひたる確証があるのである」とか、「今次大戦は正に其の岩戸開きであって、世界が天皇に帰一する処に神光正に活躍する世界が現出するのである。即ち此れが世界人の真のメシアであって此れを復古の大戦と云ふのである」などと書いています。

第二次世界大戦を天皇を中心とした神政政治へ元還りする「神政復古」の大立て替えだと考えた者は少なくはなかったといいます。しかし天津教はまさに昭和7年に当局から弾圧を受け、解散させられたそうです。




・石原莞爾(かんじ)も予言していた「世界天皇の出現」

日本から世界天皇が出現すると預言したのは「竹内文書」だけではなく、石原莞爾も独自の宗教的理論により同様の見解を持っていました。
石原莞爾は陸軍軍人で関東軍の作戦主任参謀として、板垣征四郎とともに満州事変を計画、実行した人物です。

そして「世界最終戦論」と提唱するほど熱烈な日蓮信者としても有名でした。石原は日蓮聖人の予言により、天皇が世界天皇として立ち、永久平和が訪れると信じていたようです。

また、石原は「第五の五百二重の信仰」という独自の解釈により、当時の計算でこの後70年以内に、「永久平和世界実現という大使命をもって、聖天子金輪大王すなわち仏の全権大使賢王が、日本国皇室から出現する」と
予言したそうです。

すでに70年以上が経ちましたが「世界天皇」の出現はありません。




・世界を治める「てんし様」が現れるのはこれから

日月神示の中に、「世界天皇の出現」に関わる箇所は沢山出てきます。一部のみ抜粋します。

「すべてをてんし様に捧げよと申すこと、日本の臣民ばかりでないぞ、世界中の臣民みなてんし様に捧げなならんのざぞ」(『富士の巻』第25帖)

「世界丸めて一つの国にするぞと申してあるが、国はそれぞれの色の違う臣民によりて一つ一つの国作らすぞ。
その心々によりて、それぞれの教え作らすのぞ。旧(ふる)きものまかりて(滅びて)、また新しくなるのぞ、
その心々の国と申すは、心々の国であるぞ、一つの王で治めるのざぞ、天日嗣天皇(あまのひつぎ)の皇子様が、世界中照らすのぞ」(『地つ巻』第11帖)

「三千世界一度に開いて、世界一列一平(いちれついったいら)一つのてんしで治めるぞ」(『雨の巻』第13帖)

これを読むに、日本のみならず世界中の人々が天皇を拝むようになるとのことですが、大事なことはあくまでも強制ではなく、自発的に自然的な気持ちから拝むようになるということです。

「何もかも、神の国に向かって集まるようになっているのざぞ。神の昔の世は、そうなっていたのざぞ。

磁石も神の国に向くようになるぞ。北よくなるぞ。神の国拝むようになるざぞ。どこからでも拝めるのざぞ。

おのずから頭下がるのざぞ」(『夜明けの巻』第2帖)

皇居の一般参賀もですが、全国から大勢の国民が集まる参賀は強制的動員ではありません。天皇と国民が「まこと心」で結ばれる、美しく世界に広がる形で実現する時が日本の天皇が「世界天皇」になる時なのでしょう。



・日本が目指すべきは天皇による祭政一致の世

日月神示には正式な名称はなく、「ひふみ神示」とか、「ひつく神示」という呼び方もありますが、「ひつき(ぎ)」という訓(よ)みは天皇の正式名称である「天津日嗣皇尊(あまつひつぎすめらみこと)」の「日嗣」とも
通じるといいます。

日月神示が正しく「日嗣」の神示であるのならば、本来は天皇自ら直受すべき神示なのだそうです。

日月神示本文「多数決が悪多数決となるわけが何故にわからんのぢゃ。投票で代表を出すとほとんどが悪人か狂人であるぞ。世界が狂い、悪となり、人民も同様とっているから、その人民の多くが選べば選ぶほど、ますます混乱してくるのであるぞ。

それより他に人民の得心出来る道はないと申しているが、道はいくらでもあるぞ。人民の申しているのは平面の道、平面のみでは乱れるばかり、立体に綾なせば、弥栄えて真実の道がわかるのぢゃ。ぢゃと申して独裁ではならん。結果から見れば神栽ぢゃ。神栽とは神人交流によることぞ」

このように、てんし様を中心とした祭政一致の世が復活する道は簡単ではないようです。

世界は動乱の時代を迎えており、その大激変を乗り越えるというプロセスを経ない限り永久不変の理想社会は訪れない。それが日月神示に一貫して書かれています。

(2章へ続く)



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下記は私がまとめた同じ日月神示の記事です。是非参考にどうぞ(*^-^*)


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