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デーヴィッド・アイク/今知っておくべき重大なはかりごと①

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この記事は基本無料で全文読めます。100円と設定してありますが、それは読み終わった後に払ってもいいかな?って思えたらで全然OKです。いつもご支援ありがとうございます(^-^)

また、記事は私が気になったエピソードのみ抜粋して取り上げる内容となります。多少言い回しを変えて読みやすくしますが、基本は本文通りのものとなっています。

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今回は序章で描かれているデーヴィッドがどんな人かというお話です。私もなんとなくしか知らなかったので、それがこの本の冒頭に書かれていたので紹介したいと思います。

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■狂気の知覚とは知覚する者による正気の知覚


私はイギリスで最も頭のおかしい男として30年程呼ばれ、今ではどこでもそう呼ばれるようになりました。私を狂気とよぶ一般大衆はそもそも集団的な狂気を持っているのであり、その狂気は正常なのです。だからそれから外れた私は狂気の持ち主だと言えるのだそうです。

集団的狂気、狂気の知覚とは知覚する者による正気の知覚です。その知覚とは集団としての社会が正気だと定めたものにすぎないのです。

集団的な社会の正体とは、世論を支配し、影響を与え、取り締まる人たち、自分たちの定めた基準を押し付けて来る人たちのことです。正気と狂気は必ずしも事実ではなく、知覚によって決定されるのです。

人類の歴史は狂人と危険人物に溢れていますが、その多くは死後ずっと経ってあら「時代の先を行った」として敬意を払われています。

正気と狂気の知覚は固定的なものではなく、知識が進歩するにつれて変化するものです。洞窟に暮らす原始人に月旅行が可能だと言えば、頭がおかしいと思われることでしょう。現代人に月旅行は不可能だと言っても、同じい言葉が返ってくるはずです。

こんなふうに「過去」と「現在」で知覚が食い違うのは人間だけの、信じがたいほど気が滅入る特徴です。

多くの人は、昔の人間は預言者を―今から見て明らかに思えることをその時点で見ることができた者を―嘲笑し、殺害までしたかといってバカにし、非難します。

ところがその同じ人たちが、今の自分が同じように反応していることを認めようとしません。自分たちと違った世界の見方をする人間、自分たちの現実感覚を成型し、固めている基準が見えてしまう人間を決して受け入れようとしません。

純粋に理解を求める精神は、自分は何も知らないという揺るぎのない根拠から生まれてきます。そんな精神は謙虚で賢明だから、人類が知っているのは本当に知るべきことのうちの、信じられないほどわずかっでしかないことをよく承知しています。だから、そういう人の精神はあらゆる可能性に対してつねに開いています。

ここでいう可能性とは、植え付けられた宗教的、文化的、科学的、社会的な信条に決して意義を申し立てたりせず、その正体を暴露したりもしない、限定付きの可能性のことではありません。

一切の例外のない、文字通りすべての可能性のことです。信条体系の可能性だけでなく、あらゆる可能性を考えることは、大半の人間にとっては、吸血鬼にとってのニンニクのようなものです。牢固とした知覚は何の疑念もなしに繰り返されることによって再生され、固まっていきます。

新聞が私の狂気の世界を報道していたとき、皮肉なことに、私は正気でした。歴史的な水準の嘲笑と虐待に直面した1990年代、私は自由の光の中へと歩みを進めたいたのです。それは本物の自由で、考えられないことを考え、言えないことをいうことができ、人びとの思惑など気にする必要もありませんでした。

これほど貴重な贈物を得られる人間がどれほどいるでしょうか。しかも、手に入れようと思えばいつだってそこにあるのです。私にできることなら誰でもできます。中国の哲学者、老子は言っています。「他人の同意を得ようとすればその虜とある」


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■「涙の惑星」地球でデーヴィッド・アイク、かくかく覚醒へ


幼少期からプロサッカー選手時代


私は1952年4月29日、イングランドのレスターに生まれ、公営住宅団地で育ちました。当時の暮らしは現在とはまったくの別世界で、インターネットもコンピューターも、スマホもタブレットもなく3歳まではテレビチャンネルもひとつだけでした。

家計は火の車でも貧しさを意識したことはありませんでした。自分で楽しみをつくり出し、興味のあることに没頭していました。どちらもテレビ画面や最新アプリを通して届くものではありませんでした。生活は今よりシンプルで、ものを考えたり、思いを巡らせたり、夢想したりする時間がたっぷりあって、それが私のデフォルト状態でした。今になってみると、自分の人生パターンがよくわかります。

それが子どもの頃はサッカーに夢中で、プロ選手を目指していました。一連の偶然と「ちょっとした幸運」のおかげでチャンスをつかみ、すべては順調に進みましたが、間接リウマチを患ったために、選手生命を21歳でピリオドを打つことになりました。

初めて関節炎が出たのは15歳、コヴェントリー・シティFCのゴールキーパーになってわずか半年後のことで、それから症状は悪化の一途をたどり、他の関節へと広がっていきました。何年間も痛みをこらえてプレーを続けましたが、やがてそれも限界を迎えました。

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偶然と「ちょっとした幸運」でジャーナリストへ


もともとジャーナリズムを第2志望にしていたので、求職活動はその方面にしました。狙ったのはBBCテレビのスポーツ司会者でした。私の状況では不可能に近いと言われていましたが、プロサッカー選手になるときも、大勢の人が同じことを言っていました。

コヴェントリーに入団するために15歳で学校を中退していたので、大学はおちろん、学歴と呼べるものはゼロでした。ジャーナリストになるのはまず無理だと言われました。

ところがまたしても例のパターンで次の偶然と「ちょっとした幸運」がもたらされ、おかげで私は新聞社、ラジオ局、地方テレビ局を経て、最終的にBBCスポーツの全国ネットテレビで司会者になることができました。このパターンが何よりはっきり表れたのは、今も暮らしているイングランド南岸沖のワイト島である地方団体を立ち上げ、その一員として、イギリス緑の党本部に加わったときでした。

しかもそれから数週間のうちに、またしても偶然と説明不能の出来事が続いて、私は党の見解をマスコミに発表する広報担当に選ばれたのです。

もう私の人生に何かのパターンがあることは否定できません。目標を設定するとどういうわけか、それに合わせてドアが開いたり閉まったりして、目標が達成されるのです。一体何が起きているのか私には見当もつきませんでした。


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運命的な出会い


1980年代の後半になると、私はテレビ界に嫌気がさしてきました。空虚なくせに自尊心ばかりが旺盛な世界だということがわかったからです。ありがたいことに、私の人生が劇的な転換期に差し掛かるとともに、この段階は終わりを迎えました。

1998年に入るとすぐに、奇妙な体験が始まりました。ひとりで部屋にいるのに、誰かが、あるいは何かがそこにいるような気配が感じれられました。ある存在—霊とでも呼びたいもの―でした。その感覚はますます強くなり、年中その存在が感じられるようになり、とうとう何かしなにではいられなくなりました。

1990年の初め、まだBBCで働いていた私は、ロンドンのホテルの一室でベッドに腰かけていました。存在があまりにも明白に感じられたので、こう呼びかけてみました。「この部屋に誰かいるのなら、お願いだからコンタクトしてくれ。このままじゃ気が狂ってしまう」

数日後、冬至まだ幼かった息子ガレスを連れて、ワイト島の新聞販売店に入ったところ突然、足が動かなくなりました。まるで磁石で床に貼り付けられているようでした。何が起きているのか理解しようとする私の精神に、ある「声」が―実際には非常に強力な思考形態が―響きました。

「奥の棚の本を見よ。」

すると凍りついていた足が「溶けました。」私は訳が分からず、呆然としたまま、小さな本棚に向かいました。あそこにはこの前まで恋愛小説しかなかったはずでした…。案の定、棚には恋愛小説がずらりと並んでいましたが、その間にまったく別の本が1冊混じっていたのです。

(続く)



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●書籍の紹介


世界覚醒原論 ―真実は人を自由にする


10年前のものですが、内容は今起きていることに関係のある箇所が随所に溢れています。


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ムーンマトリックス1ユダヤという創作・発明


ムーンショット計画という内閣が計画している良からぬ計画が良く分かる本だと思えます。是非とも買って読んでみたいです(^-^)


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マトリックスの子供たち


今回とりあげた「世界覚醒原論」の更に新しい情報を取り入れた書籍と言えます。これも是非とも読みたいですが、3300円と高額なため、何れ図書館に予約して、少しずつ記事化します(^-^)

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