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結婚はあなたとするか、あなた以外の人とするかなのよ

「太宰はラノベだから」と言う女がいて、すっかりその感性に安心してしまい、たぶんこれはもう大丈夫だと思った記憶が夜霧のように立ちのぼる。


太宰の『新郎』は、真珠湾攻撃の日に書かれた短編で、どうしてか冒頭の一文が格言のように扱われる事が多い作品だけれども、今の僕には共感なのだろうか、精神性に頷くところが多い。


太宰が敬愛していた芥川龍之介の「将来に対する唯ぼんやりとした不安」よりも明確な、戦争という非日常に抵抗する決意としての暮らしを、エッセイとダイアリーを混ぜて水で薄めたような内省的なテンポで綴り、ポトンポトンと滴が垂れるような、終わりのない生活への矜持を思わせる何かで話は終わる。


このごろ私は、毎朝かならず鬚を剃る。歯も綺麗に磨く。足の爪も、手の爪も、ちゃんと切っている。毎日、風呂へはいって、髪を洗い、耳の中も、よく掃除して置く。鼻毛なんかは、一分も伸ばさぬ。眼の少し疲れた時には、眼薬を一滴、眼の中に落して、潤いを持たせる。


ここなんか、いつ僕こんなの書いたっけなってくらいバイブス感じちゃったよ。その他にも純白のシーツで毎日寝てる〜みたいなことが書かれてるんだけど、ちょっとそのメンタリティはキモいなと思った部分もあるので、人のふり見て我がふり直せ、これからは僕も気をつけようと思った。


(あと文中に「その火絶やすな」って歌について触れられていて、ずっと東大の学生歌〈足音を高めよ〉の詞だと思っていたのだけれど、調べたら北原白秋による戦中歌の名前だった)


話は逸れるけど、方丈記って「ゆく河の流れは絶えずして」から始まるじゃん。恋も似たような感じで、無常と言えばそれまでだけれども、そもそも僕という人生の河に恋は常に流れてないからこの喩えは前提からして間違えなんだけど、とにかく流れていった恋は二度と戻らないし、ポジティブに言い直すと「みんなちがって みんないい」みたいな感じっぽい。果たしてそうだろうかという疑問はここではいらない。やってられなくなるから。


そのあとに続く「知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。」もそうだし、ゴーギャンの『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』もそうだけど、まだこの命題と向き合うほどの覚悟は自分になく、根源的なものにあまり関心もないから、ただ現象を俯瞰するだけに留まっている。実際は客体でいられず、日々を無為に過ごしているだけとも言えるかもしれない。


カントは現象について、主観によって構成されるから物自体ではないよと言っているし、宮沢賢治も春と修羅で「わたくしといふ現象は 假定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です」と言っているけれど、恋という現象は生活のテーゼとして存在するべきなのだろうか。僕にはまだ分からない。


太宰に話を戻すと、新郎の中で「思う事をそのままきびしく言うようになってしまった」と書かれていて、ひどく羨ましい気持ちになった。2つ前のnoteに天啓という題で「よし、これからは人の気持ちをあんまり考えずに思ったことをガンガン言うぞ!」と思い決意表明したのだけれど、今のところ有言不実行。何やってるんだか。



・・・寝る前にここまで書いて、起きて読み直したら我ながら相変わらずのエモさ。何が言いたいんだか自分でもさっぱり分からん。引用が多くてペダンティックだし、こんな文章じゃギャルにはモテないね。でも感情は添削できないから、いつものようにそのまま公開しちゃお。


太宰治 『新郎』 青空文庫
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