私たちの沈黙
ウィトゲンシュタインは「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」と言っているけれど、今日はそのルールを破ろうと思う。
山口メンバーについて思うところがあって、ほな駄文でも弄するかとぼんやりしていたら、いつのまにか山口”元”メンバーになっていた。これは急がなくてはいけないと、スマホを握りピコピコ指を滑らせている。
正直、事件のことはどうでもいい。別に知りたくもない。真相は本人達にしか分からないからだ。こういうデリケートな問題について自ら触れるほど僕の趣味は良くない。
ただ、山口メンバーが被害者の女子高生に言ったとされる台詞はあまりに強烈で、罪を憎んで人を憎まずと言うか、山口メンバーを憎んで言葉を憎まずと言うか、とにかく「ワンナイトしよう」「俺は狼になりたい」「何もしないなら帰れ」の全てに僕はノックアウトされてしまった。noteの「エッチだってしたのにふざけんなよ」という名前をどれかに変えたいと思ってしまったくらい。
この感情を公に露悪する事が人として許されるのか分からないけれど、パンチライン炸裂っぷりは刮目されるべきであり、僕はデリカシーがないからこういう事を書かないほうが良いなんて分かってるんだけれど、それでもやめられない麻薬のように強い言葉の力。
俺は狼になりたい
俺は狼になりたい
俺は狼になりたい
すごい。すごすぎる。自由律俳句の天才か? 尾崎放哉の「咳をしても一人」に引けをとらない。これはもうベースなんかやってる場合じゃない。
言うまでもなく、ヘッセの『荒野のおおかみ』の影響があって、自殺を逃げ道として捉える事で精神の均衡を保つ、善悪の魂に揺れるハリーのオマージュに違いない。インテリだ。
生の永続性と人格再形成について、宇多田ヒカルも同題『荒野の狼』で「誰にも消せない痛みを 今宵は私に預けなさい」と歌っているけれど、お気付きの通り彼はそれを「ワンナイトしよう」と言い換えたのだろう。ドラゴンナイトとは訳が違う。
何もしないなら帰れ
何もしないなら帰れ
何もしないなら帰れ
伊奈信男は『写真に帰れ』で、新しい芸術としての写真は機械性こそが本質であり、新しい美の表現・時代の記録や生活の報告・光による造形が表現されるべきだと言っていたけれど、一体「何もしないなら」の「何も」とはなんなのだろうか。
形而上学の根源的な問いとして、Why is there something rather than nothing?と言うものがある。日本語にすると「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」なのだけれど、本件では前提としてのsomethingが何なのかは当事者間の共通認識として存在していたように思える。
つまり何かはあり、するかしないかの意思決定こそが論点であった筈なのだから、本来は「何かするよ、何かしたいな、何かして欲しいな、帰らないで、お願い」こういう姿勢であるべきだったと思う。
だから山口メンバーに非があったのは間違いない。それは相手が未成年だからとかではなく、コミュニケーションを間違えたからだ。驕れる人も久しからず、ただ春の夢のごとし。おごっていいのは飯だけだと相場が決まっている。
ご存知のように、ギャルと話すための基礎教養としての韓国語と言うものがあって、友達以上恋人未満の微妙な関係性をsome(썸)って単語で表現するんだけれど、その文化として許容されたsomethingの修飾には実践としてのロマンスが不可欠であり、化粧品のパッケージのように上辺だけでも取り繕う努力をしない男は弾劾の対象にされてもやむを得ない。
ここから先は軽く聞き流して欲しいんだけど、認知的不協和のハーモニーは蜘蛛の糸のように細いステージの上で綱渡りをするかのように成り立っていて(だからこそ共犯関係が美味しいのも良くわかる)選択肢を間違えると即死するバランスだと誰しもが理解しているのにも関わらず悲劇が真夜中に繰り返し起きてしまうのは概ねプロラクチンの分泌によるものだろう。
特に問題なのは「明日の仕事も朝早いんだ さっさと帰れよ」マインドである。女の子の気持ちになって考えれば、たとえwin-winの関係性であったとしても(まぁ個人の価値観によるんだけど)この夜が終わってしまうのならばせめて朝までは一緒に過ごしたいとか、起きたときに好きな人が横にいたらどれだけ幸せだろうかと思うのは、女子高生ならば然るべき感情であって、事後に帰れよなんて言われた暁には悔しくて悲しくてなんだか急に利用されたように感じてブチ切れて大騒ぎするに決まってるんだよな〜。
平成演歌の女王JUJUも「愛してるっていうあなたの言葉は さよならよりも哀しい これ以上何も言わなくていい だからこの夜を止めてよ」と歌っているのに。
ちなみに「ワンナイトしよう」「俺は狼になりたい」の画像はクソコラだからね。繰り返すけど真実に興味はない。そもそも「何もしないなら帰れ」だって本当に言ったかどうか疑うべきなのだ。うそはうそであると見抜ける人でないと(インターネットを使うのは)難しい。
なんとか事務所に所属する友人がLINEのタイムラインでぼやいていた内容を要約すると遠藤周作の『沈黙』の一節のようだったので最後に紹介しておく。
一人の人間が死んだというのに、外界はまるでそんなことがなかったように、先程と同じ営みを続けている。こんな馬鹿なことはない。これが殉教というのか。
おまえが消えて喜ぶ者に
おまえのオールをまかせるな
そういうことだぞ!!
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/なぜ何もないのではなく、何かがあるのか
追記1: 夜中に呼び出せるのもそうだし、こんな態度を取れるってことは絶対にそれまでも「何か」あったでしょ。入院中に連絡シカトしたか、交際を断ったか、アディショナルメンバーをオファーしたか、キマッてたんだか知らないけど、手の内に入れたと思って調子乗ったのが敗因。(5/8)
追記2:示談金2000万円とか、事件当時は中学生だったとか、エビデンスない不確かな情報が飛び交いまくってるけど、コンテンツとして面白かったらなんでもアリって姿勢はどうなんだろうね。あと言われてみりゃ当たり前なんだけど、示談金が非課税だと知って贈与のスキームに組み込んだら最強なんじゃねと気付いてしまった。更に支払い側を法人にして特損扱いで計上したらパーフェクトや。(5/9)
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