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自分の世界はまだ止まっているかも。小さな頃の記憶が静止画なのはそのせいかも知れないな。

そもそもわたしの生きる目的は

夫を困らせるためでも
こどもたちを困らせることでも
自分を迷子にさせるためでも
親の人生をなぞってあげることでもなく

自分を生きることなんだよ。

唐突に失礼(笑)

タイトル画は地上階の桑の木の下に今ごろ勝手に目を出し育ってきたゴーヤです。

ポンコツなうずまき🌀は未だ迷子で、何度もトンネル抜けた!と思っても、また迷子になる(笑)

それでも、少しづつシンプルになって来ているのは確かだね。

目指す自分を偶像していた時とはちょっと違う。
今の感覚は「既に(そもそも)そうある」のを思い出している感覚と言いましょうか?


わたしの頭の中がどう混沌としていようが、どう呼吸が苦しかろうが、誰にも関係なくて、どうでもいいこと。

なんでわざわざ創るのか?(笑)


このゴーヤは「自分の意思で、計画で芽を出した」だけ。
十分な気温だからねえ。収穫できるかもしれないね(笑)

棚ぼたを期待せず,見守ろう。

このゴーヤは「子孫を残そう!!」と生き物としての役割を果たさねば!と息を詰めて必死に芽を出したのだろうか。
生きる目的はこれだ!!と握り拳を作って頑張っているのだろうか。


こうやって植物を見ていると、自分の執着が本当にバカらしく見えてくる。
植物は、必要なものさえあれば季節に応じて育つ。
環境は大事で、でも過剰な環境や保護はかえって死に至らせる。
ちょうどいいのがよろし。
逆にちょっと足らんぐらいの方が、より美味しく出来たり、力強い結果になったりする。

自分が生き残るために何が必要で、それをちゃんとわかっていて、根を伸ばし求める。それは自分を生かすため。
その奥底には「子孫を残す」というDNAが隠されているから、その方向へ花を咲かせ実をつけるように働く。

実はそれが基本姿勢なのかもしれない。
求めても届かなければ枯れるだけ。

この覚悟を持っているのか?
植物に焦りを感じることはない笑

そうね。
わたしには明らかにこの覚悟がセットされてなかったかもしれないね笑

言葉で理解、頭で理解してきたことが、しっかりと腑に落ちていく。
慌てず、騒がず、今日を生きる。
わたしに何が必要で、何が過剰なのか。
過剰なくせに何が足りないと思っているのか。

変化しないものはないと思っていたが、実はなにも変化していないのかもしれない。

自分の世界はまだ止まっているかも。
小さな頃の記憶が静止画なのはそのせいかも知れないな。

10年経つ。
母が亡くなってから。
亡くなったあと、バーンアウトしていて、何をしていても気がついたら泣いていて。
この自然現象がなにか分からなかった。
「いきたひ」と言う映画を観た時、母から「あんたの人生、生きたらええねんで」と言われた気がして、自分の中の時計が動き出した。


アレからまた止まってたんだ。
いや、動き出したと思ったのは錯覚だった。
誰かに動かしてもらったから、ちょっとだけ動いたのかもね。

でも、この時計は自分で止めているのだから、自分でしか動き始めさせられないのだよ。

電池か?
ねじか?

いえ、故障は一つもありません。
いつでも準備してお待ちしております。
自分の中の自分が答えた。

OK!
もう時期行くよ!!


慌てない
慌てない
一休み
ひとやすみ

あっちこっちにコンポストから。
かぼちゃも出る出る(笑)

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