「余計」は余計やねん。魑魅魍魎の独り言。
改めて自分で書いた一文をフォーカスしてみた。
人のこと書いたつもりだった。
あの光景を思い出して、あの人どないしてはるんやろなぁと回想したつもりだった。
あ?
あヾ?
自分もやん。
ま、その人よりか今の自分は数は若い、と言うか少ない(笑)年齢の数ね。
(年齢ってただの数字やと思ってます。)
なんかね、、、、
いつまでも「なんなんそれ?な野望」を抱いてる自分に出逢ったのだ。
何回も出逢うけど、何回も忘れる。
薄いんやろーな笑
今ね
この本読んでるんね。
アソシエイトのやり方が分からんくて困ってるんやけど、日本語って難しくて(笑)
魑魅魍魎のわたしの脳みそでは理解出来へん笑
とりあえずリンク貼るねー。
で、家族いてる居てないということや、家事を女性(母・妻)が一択でやってるとか、0:100でないにしろ50:50にはならずとも、分担してることとか。
家族の時間の経過によって、変化するこれらの事柄についても、再考する機会になったね。
分担ではなく、そもそも自分のことは自分でするってこともね。
人は集まると、人の世話を焼こうとする。
なにせ、それが美徳というか、しないと嫌われるとか、それが親切だからと、余計な思考がいっぱいあって、世話を焼くんです。
余計な手を出すんですよね。
全く、その作業がその人にとって不可能であり、その人が所望するまで「何もしない」でいいんですよ。
頼まれてからでいい。
そして、依頼したい「こうして欲しい」と思っている人は、その行為が自分でできないのならば「こうして欲しい」というのがよろし、とわたしは思う。
ここでは「べき」と言おうかな。
この依頼の発言も、余計な思考が交錯して妙な空気感になる。
もー
普通に出来へんかなー
って、いつも思う。
一人一人がやると、効率が悪いこともある。
それは全体を通して「目的」を遂行するために役割をつくればいい。
でも、自分が座る座布団1枚持って運んで、片付けてなんて、それぞれがやれよって思ってしまう。
自分が必要なら実行すればいいし、そうでなければしなければいい。
その不要な(不快な)やりとりが嫌いだ(笑)
ほんまに面倒くさいったらありゃしない。
「余計」は余計やねん。
ということで、我が家の「余計」なものは今年中に撤去やな。
わたしも撤去しそう笑
で、よく分からない野望について。
これらの思念っていうのか「まだまだ自分は可能性があるんや」的な野望はどうやら「モノ」に宿らせているのかも知れないと気づいたわけだ。
その野望は自分の中にあると認められないから、モノに映して堆積させているのだ。
その堆積物はどんどんと古くなっていく!!
きゃー
古くなった「思念」はだんだんと知らない間に変化し、「出来ていない過去のモノ」としていつまでも消化不良の「影」となり引きづり続ける。。。。
あーーー
体が重い、、、、、
ぷぷ
これは地獄だな笑
やらねばならないになるわ、そりゃ。
やらねばならないことを作って、存在理由(いてもいいと思わせる言い訳)を認めてくれーと沼の中から手を出しているわけだ。
その沼は自分で作っとるんやなー。
ちょっと漉し器で漉しましょうかね。
さらさらになるかな?
サクッとやらかしましょうねー。
って、仕事増やしてしもてるからまた後回しなるー
昨日岡田斗司夫氏のYouTubeを流しながら迷子なっててね、その中に「アーティストデート」かな?合ってね。
1週間で一日でも1時間でもいいので、自分が過去にやりたかったことを一つ「やる」を組み込む。
そして、それは成し遂げることが目的でなく、体験でよくて、先の先まで決めておく。
そして、それは何よりも優先して、用事や仕事が入ってきてもそれを優先する。
ってことをやってみる、そんな内容だった。
やって何が得れるかというと「自分を大切にする」ということを体現するってことになるとのこと。
なるほどーでしょ。
強制的に作ってしまう。
スケジュールしてしまう、これはいい話だねーって思ったわ。
って、やってた自分が面白いなーとも思った。
目的を作らない旅をするとか、マジでやってましたもの。
再開じゃ!!
え?毎日そんな暮らししてるじゃないかって?
へへへ
ぷぷぷ
約束は「奈良の橿原」。
なのに「大阪の柏原」に到着するうずまき。
わたしが言い出した約束なのに。
やっちまうわたし。
そして、待っていてくれる友人。
ありがとう🤭
へへへ
ぷぷぷ
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?