仁道渦 と名乗るワケ
私の名前は仁道 渦(じんどう うず)です。
通称うずまきちゃん。
もちろん本名じゃない。
本名ではないということは、自分で自分を改めて命名するという作業をしたということで。
自分でつける名前にはやはりそれなりに思い入れが籠る。
それでどうしてこの名前に決めたのかを書いてみることにした。
今まで 絵を描くということは、途切れながらもなんだかんだずっとやってきた。
しかし現在の動きは「絵を描く」だけじゃない。
アートという世界にもっと入り込み、外側の世界にもはみ出して、さらに大きな枠に関わるような包括的な動きをしたいと考えている。
それは「絵を描く」というよりも「芸術をする」という感覚で、
そうなった時に、私は芯から“そういう動きをする人間”として染まりきりたいと思った。
そしてそのような動きをやり遂げる人間として、人生を捧げるひとつの儀式というか、願掛けのようなものを求めた。
それで 本名 というものを1度しまい込んで、名前すらも制作コンセプトに根ざしたものにするのが良いと思い至った。
そうすれば何度も何度も 私は名乗る度にコンセプトを自らに刻み込める。
私の大きな制作コンセプトは「加害の傷/被害の傷」であり、そこには以下のような意図がある。
「社会には、
一方的に傷つけられ続ける人も一方的に傷つけ続ける人も存在せず、それらは一人の人間の中に共存する。
誰しもが加害性と被害性を内包し、傷つけたキズと 傷つけられたキズを同時に持ちながら生きている。
この社会で生きていく瞬間 瞬間に、
どこかの誰かを踏みにじり、
どこかの誰かに踏みにじられ、
許したり許されたり、
受け入れて拒絶して、
まあしょうがないかと諦めたり、
意識して、または意識せずとも侵略と融和を繰り返す。」
そのような人間社会の中での関わりを考える時、
私は圧倒的な“個”でありながら、
いくつかの集団の“一部”であり、
大きな社会の中の“有象無象”である。
と、感じる。
私は作品に へのへのもへじ をよく描く。
へのへのもへじには「誰でも無いどこかの誰か」「どこにでもいる知らない誰か」のような意味がある。
また、「名前も知らないどこかの誰か」を表す時に「名無しの権兵衛」と言ったりもする。
へのへのもへじ は 名無しの権兵衛 だ。
でも本当は、全ての「名無しの権兵衛」にはそれぞれの名前があるはずだ。
誰かにとっての「太郎くん」が、誰かにとっての「名無しの権兵衛」なのだ。
私にももちろん名前がある。
しかし有象無象の中に存在した時、私も誰かにとっての「名無しの権兵衛」となる。
私が名無しの権兵衛になった時、私と私以外の境界線は極めて薄くなる。
大きな社会という渦巻きの中で流動する液体になる。
私は私であり、名無しの権兵衛でもある。
さて それでいよいよ表題に戻ると
「名無しの権兵衛」は英語で「ジョン・ドウズ」と言われる。
どっかのジョンさん のような意味である。
既にお気づきかもしれないが、
ここから非常にくだらないダジャレになる。
ジョン・ドウズ→ジョンドーズ→ジンドーズ→ジンドウズ→ジンドウウズ
私は、私を知らない誰かにとっての名無しの権兵衛てあり、どこにでもいて どこにもいない存在。
私は私であり、集団であり、社会である。
圧倒的な個であり、大きな渦の中に流動する液体でもある。
私はこの名前を名乗る度、
強烈な自己と、社会の中に溶け込む名無しの自分を強く意識する。
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