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ニコンと父の思い出

なんだか父の事を思い出した、そーするとカメラの事ばかり・・
独り言の思い出話です。
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同級生とついに出会った
 1959年6月生まれ、ニコンFアイレベル発売。63年目の今、手にした。(2021年8月現在まだ出会えていない・・・からまだ妄想・・)
 アサヒペンタックスでプリズムの入った山型の”一眼レフカメラ”のデザインは知ってはいたが頂点を最後まで尖らせた”黒い三角錐”に”F”と白一文字
ニコンFアイレベルのブラックは”かっこいい!”と思った
カタログを広げては眺めまくっていた
 裏蓋の開け方が変わっていたりファインダーやスクリーンまでばらせて掃除ができるのがとてもメカニカルに感じて楽しかった。

 一眼レフのニコンFが出る前ニコンのビューファインダーカメラの”ニコンSP”に父は憧れが強かったようだ、でも、安月給とりには手がでず、”アイリス”というカメラを使っていた。可愛らしいレンズシャッターの”パシャ”という音のするカメラだった。どこに行くにも持っていっては家族を写してくれて休日の夜にスクリーンを広げてその撮ったリバーサルスライドを見せてくれた、日曜の”幻灯会”とよんでいた。
 父は昭和の高度成長期の典型的中産階級のサラリーマンで
それなりのボーナスももらえる様になっていった
夏と暮れに家族で“百貨店”に行きそれぞれ買い物をするのが恒例だった。

 ある時、普段無口な父が妻(母)と母(祖母)に何やら相談していた。
その後のボーナス時期の後、会社から帰宅した父が
大きな紙袋から金色の箱をうれしそうに出した。
Fの本体とレンズ2本、正確に言うとNikonFTファインダー付きボディとF1.4の50㍉標準レンズとF3.5の135㍉望遠レンズだ。
社内の生協で”社割“(社内割引の販売)とはいえどボーナスの大半をつぎ込んで予約し購入したようだった
「ブラックがほしかったんだけど社員に回って来るのはいつになるかわからないそうだから、シルバーだってカッコイイだろ」とニヤニヤ話していた。うれしそうに保証書に住所と名前をつけペンで細い字を書いていた。レンズ交換のしかたと癖のあるフィルムの装填のしかたを教えてもらった。 

 小学生の高学年の頃、お年玉を数年貯めてカメラを買った
ポラロイドカメラにしようかと思ったが”焼き増し”が出来る
普通の35ミリのネガが撮れるカメラ、ヤシカにした
長時間電子シャッターが売りの「エレクトロ35」の黒にした
星座を撮った、写真屋のおじさんに「真っ黒でゴミぐらいしか写ってないぞ」とプリントをストップされた、「ゴミじゃなくてオリオン座ですよ〜」とやっと紙焼きをしてもらった。 

 学生時代、北アルプスに行く時、父は”F”を貸してくれた「ニコンは丈夫なんだぞ」と自慢気に、大事に着替えやタオルでぐるぐる巻にしてザックの中に入れた、まだ防滴構造でない頃のカメラだから振動には強くても雨だけは心配だった。 

 ホコ天でバンドを撮っていた時も"F”を使った。
カラーとモノクロ、レンズ交換が間に合わない時様に中古で見つけた”ニコマート”や”EL”と、2台も3台もぶら下げてガツガツとぶつかりあっていたがなんともなく、人間の肩はパンパンになっていた。
 ライブハウスのステージ前の暗がりで手探りでガンガンレンズ交換をしたが、ボディマウントは傷は増えてもガタは未だにない、電子部品の露出計回路部分はもう動かなくなってしまったが、まだアナログ撮影は問題なさそうだ。60年前のレンズ達も未だに現役でデジタルのDfに付けて使えている。

 父は55歳で定年退職した
退職記念にイニシャル入のNikonEM(通称リトルニコン)を購入し
それをぶら下げては母と度々国内旅行をしていた
「Fより軽くて小さくてオートだから露出の失敗もなくていいな・・」と
だが老眼や白内障が始まっていたようでピンぼけが多かった。

 命日は女優の奈良岡朋子さんと同じ日だったので
忘れてもすぐ検索できる、父は73歳で亡くなった
遺品わけのように姉のところに”EM”は行き、義理の兄が使っていた。陸上自衛隊あがりの”でかい義兄”がEMを持つとさらに”リトルニコン“はミニチュアの様に見えた、その義兄も突然亡くなった。
 姉から母へそして自分へ”EM”が回って来た
最近はフィルムを使うことがなくなってしまったが回転系の機械構造が固まらない程度に2台ともたまに空シャッターを切り“F”とダブル遺品になった”EM"を大切に保存している

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