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Y先生の思い出

学生時代から毎年、秋めいて肌寒くなってくると、無性に物悲しい気持ちになる。

そのせいか、急に雨続きで寒くなった夜、昔のトラウマティックな思い出が立て続けに走馬灯のようによみがえってきていた。

子供でも大人でも、コミュニティに入れなかったり、理由がわからず避けられたりすることはとても辛いことだ。した側は忘れても、された側は一生忘れない。

一通りの辛い思い出が連日襲ってきたあと、お世話になったY先生の死、という事実が私に襲い掛かってきた。

今になってようやくわかることだが、大学の研究者の世界というのは本当にドロドロとしており、子供のようないじめや足の引っ張り合いが堂々と行われている。そんな世界にあって、少年のような、または人生を導く指導者のような、全く奇跡のような先生だった。

学者の世界とは異なる中央の役人でありながら、親しい親戚のおじさんのように接してくれた自分だからこそ、話してくれたこともあったんじゃないかと思う。

かねてから「先生語録」は記録しておきたいと思っており、ここにメモ的に残しておこうと思った。先生の生きた記録であり、私の中で今でも迷ったときに導いてくれる言葉たちである。

「前より生き生きしているね」

出向先の省庁で久しぶりに再会したときの先生の発言。自分ではあまり自覚はなかったけど、法令で一挙手一投足ががんじがらめの省庁から、担当官の裁量で割と自由にできる省庁にいったので、そう見えたのかなと思う。確かに、大変だったけど出向時代の経験は今でも貴重な財産になっているし、本当に面白かった。自分は裁量のある仕事が向いているんだなあと、今でも時々先生の客観的な視点を思い出しては自覚する。

「楽しいのかなあ、と思っちゃうよね」

先生は非常にバランスのとれた方で、誰かを悪くいうことはまずなかったけど、ぽろっと、裁判官出身の政府職員との面談後にこんなことを漏らしたことがあった。上の意向や法令、政治的な突き上げなど、いろいろなことに縛られて苦しそうに見えたんだろうな。このあたりは分かる人にしか分からないかもしれない。いずれにしろ、先生にしては珍しいコメントだったので、ちょっと面白いなと思い、今でも印象に残っている。

「母親に『そんなこといってはだめですよ』と言われてから、ずっとなぜだろうと考えていた」

小さいころ、友達と一緒に女の子をからかってしまったことがあって、そのときに母親に冒頭の言葉を言われて、なぜなのか分からなかったそう。それ以来、その言葉がずっと残っていて、その後も女性の権利について考える、今の研究の原点になったんだという話。

私はそれを聞いて、ちょうど子供が未就学児なので、母親の何気ない言葉が子供に大きな影響を与えるんだなと思ってしまった。先生が言いたかったのはそういうことではないんだけど。

いつもはもっとライトな話が多いのだが、生前に最後にあったときは、こんなプライベートな昔話などをしていた。さらには次の発言もあったので、先生は自分の死期を悟っていたのかもしれない。

「自分はいい人生だった。」

先生、まだまだご活躍してください!といった趣旨のことを言ったことを覚えている。先生は、ただ力なく静かに笑うだけだった。このことがずっと突っかかっていた。なんであんなことをいったんだろう、と気になっていた。そうしたら、その後、ウズベキスタンに滞在中、先生の訃報があった。ああ、そういうことだったのかと思った。

葬儀で聞いた、先生の奥様の語った先生の亡くなるまでの闘病生活からすると、私が先生に会ったときは、まだまだ、死期を悟るような状況ではなかったはずだ。でも、ご家族にも悟られないようにしながら、実はご本人は気づいていたのだろうと思っている。

最初にY先生に会ったのは、入省3年目くらい、上司に連れられて挨拶にいったとき。それから、異動先でお茶出しなど身の回りの世話をする担当になり、お話好きの先生といろいろな話をした。私がネパール出張をしたときはネパール土産のお茶をお出しして盛り上がった。

出向先はもっと仕事的には近くなり、常に何かあれば相談する存在となった。きっと、そういう人は私だけではなかった。葬儀の場には本当に多くの人が集まり、意外なつながりを知ることもできた。

多くの人の指針となり、相談役となり、慕われ、心に生き続けるY先生。

そんな人になれるだろうか。多分なれないんだけど、そうありたいと思うことで自分も道を踏み外さないような気がしている。

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