人の言葉を読むというふ事について

昨日、ポエムみたいな文章を書いた。ポエムを書いたのは二回目で、1回目は恥ずかしくて有料にしたので、実質一回目のポエムを匿名を良いことに世界に放出した。

案の定というか、あまり人には届かなかったのだろうなと感じている。

人の言葉なんてそもそもちゃんと読みたくないのに、行間を読まなければわからないポエム風の文章なんて更に読みたくないのだ。

だからこそ表現を研ぎ澄ませて行間を読んでもらえるだけの文体を作り上げる人が詩人として尊敬されるのだろう。一般人には言葉はそんなにうまく使えないから、ハウツー本みたいな方向に舵をきるしかないことは結構あると思う。


翻って、読者のレベルが高くなれば、ハウツーみたいな内容は不要になる。ハウツー文章で本当に必要なことに出会える人は少ない。多くのビジネス書も、職務上役立つ事よりもモチベーションの方にはたらきかけている物も多いと感じられる。

そう考えると、日本語を詩であふれる世界にすることもまた可能なのだと思う。

国際化が進んで、わかりやすさが重要視される世界の中で、詩的な表現にすべてが詰まっているような言語が醸成されるのもとてもおもしろい未来だと思う。


そもそも論理的であることは、正しいことではなくて、説得的というだけなのである。

人と議論をする際に論理性は重要だけれども、論理の出発点は結局経験であったりするのだから、接続詞ばかり尊重していてもしょうがない。

もちろん接続詞の重要性は無視されるべきではないが、接続詞の使い方なんかは義務教育までにしっかりと教え込まれて欲しい。


義務教育といえば、通信教育の環境がどんどん整備されている令和において、どれくらいの範囲を学校で、どれくらいの範囲を家で教育すべきか、という問題は今後非常に問題になると思う。

学校において人間関係を学ぶというのが一番大切なことだとも思うが、学校の人間関係が上手くいかない場合、すぐに家での通信教育に切り替えることも可能である。

そうやって場面を切り替えるようにうまくいかないだろうから、もっと精緻に教育について議論している人たちの話を聴きたい。


人の話を読むというのはかんたんなことではない。

日本語への愛か、書き手への愛、どちらかがなければ書かれている事は十分には伝わらない。

では読み手にすべての責任があるという話なのか。

そんな事はもちろんない、読み手に全ての自由があるというのが文章の良いところである。

話していると、どうしても相手との関係性が影響してくるが、読むのはいつも一人だから、そこにはひたすらの自由が広がっている。

だからこそみんな書くことを試みるのだろう。

完全に自由な世界において、自分の創った言葉がなにかの意義を持つようにと願いながら。


なんとなく天声人語風の、語尾とりゲームになってしまった日曜日の朝。

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