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死には生があり、その逆もまた然り

今回は、Gigi Young(ジジ・ヤング)さんのFacebookの投稿文を翻訳しました。とても力強いメッセージです。

生涯を通してスピリチュアルな繋がりを維持し続けることは並みならぬ努力を必要とし、その一方で内なる存在の洞察や感覚に背を向けることはあまりにも簡単です。しかし、もし私たちが高次の自己を無視することを選んだなら、それを認識する能力は失われてしまうでしょう。

これは直視しがたい厳しい現実ですが、私たちの心は筋肉と同じように、鍛錬して精神面にリンクさせなければ萎縮してしまいます。運動なしに完璧に調整された体格を期待することはできませんし、適切な精神修行なしに調整された精神状態を期待することはできません。

精神的な心の萎縮は、個人が物質面の中に存在するものだけを認識し、それを信じるようになったとき明らかになります。このような萎縮が起こると、彼らの知覚範囲はますます小さくなり、最終的には最も単純明快で密度の濃い現実しか受け入れられなくなります。

これが、霊媒を通して人間の精神という創造的な源泉に触れることができる人もいれば、機械的で物質主義的な表現をする人もいる理由です。このように物質主義に走った人の多くは、脱出不可能な牢獄の中にいるような感覚を覚えるようになます。この想像を絶する絶望感は自己を失ったことへの嘆きなのです。キリスト意識の哀悼を意味しているのです。

余談ですが、スピリチュアルなエネルギーを否定するのは恐怖心からであり、それがやがて無知に繋がります。この議論は、まだ目覚めていない人たちを侮辱するためにではなく、統合された智慧と、不自然で本物の霊的現実につながっていない歪んだ霊的観念との違いを見分けるために行わなければなりません。

不思議なことに、スピリチュアルな概念を本人が純粋に理解できていなくても、それに働きかけることができます。それくらい、精神修行はパワフルなものなのです。しかし、心が分離しすぎて、内なる霊的な力を否定するようになると、霊的な概念を過剰に物質化するようになってしまいます。

この超物質化によって文字通りに解釈する直解主義が生まれ多角的な視点が持てなくなり、その結果多次元的な現実をも認識することができなくなります。直解主義者/物質主義者の心が認識するものはすべて最も明白な解釈に即座に変換され、新しい洞察力、創造性、心的意識の繊細さは、すぐにそれらを腐敗させる精神的パラダイムに押しつぶされてしまいます。こうして唯物論者は、常に精神の光を渇望しながらも、その光を見るやいなや、破壊し拒絶する小さな部屋の中に閉じ込もってしまうのです。

私たちは、太陽に目を向けることを選択しなければなりません。私たちは、自分よりも高いところにあるものに身を委ねることを選択しなければなりません。心を静め、パラダイムを解放しなければなりません。私たちは生まれながらに霊性と繋がっていますが、それを認識できるかどうか保証されているわけではありません。悟りを得るために時には戦わなければなりません。それによって自分が破壊されるように感じる時もあるでしょう。そして、その喪失感から、このプロセスに背を向けたくなるでしょう。私たちは、打ち砕かれ、生まれ変わるためにここに来たのだということを理解してください。自己変革の苦しみを乗り越えられない人はいません。そして、ひとりとして内側に飛び込めない人はいません。

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